悪心(おしん)と嘔吐(おうと)は密接に関連するものの、異なる症状です。悪心は嘔吐の前に生じるむかつき(吐き気)を指す医学用語であり、患者の主観的な不快感です。一方、嘔吐は胃内容物を口から排出する生理的な現象です。これらの症状は同時に発現することもあれば、悪心のみや嘔吐のみが見られることもあります。
悪心・嘔吐の発生メカニズムは複雑で、主に中枢神経系と末梢神経系の経路を介して引き起こされます。延髄の嘔吐中枢が活性化されることで、悪心感や嘔吐が誘発されます。この嘔吐中枢は様々な刺激によって活性化されます。
神経伝達物質としては、セロトニン(5-HT3)、ドパミン(D2)、ニューロキニン(NK1)、ヒスタミン(H1)、アセチルコリン(mACh)などの受容体が関与しています。これらの受容体は制吐薬のターゲットとなっており、原因に応じた治療選択の基礎となります。
嘔吐反射は複雑な神経筋協調運動であり、横隔膜や腹壁筋の収縮、胃幽門部の収縮、噴門部の弛緩などが同期して起こります。一方、悪心はこの過程の前段階として自律神経症状(発汗、頻脈、唾液分泌亢進など)を伴うことが多いです。
悪心の原因は大きく中枢性と末梢性(反射性)に分類されます。診断においては、この鑑別が治療方針決定の第一歩となります。
中枢性悪心・嘔吐の主な原因
末梢性悪心・嘔吐(反射性)の主な原因
診断のポイントとして、以下の情報収集が重要です。
診断プロセスでは、詳細な問診に加え、以下の検査が行われることがあります。
悪心を伴わない突然の激しい嘔吐は頭蓋内圧亢進を示唆する重要な所見です。また、便臭のする嘔吐物はイレウス(腸閉塞)を疑う必要があります。これらの特徴的な所見を見逃さないことが適切な診断への第一歩となります。
悪心・嘔吐に対する薬物療法では、原因と病態に応じた制吐薬の選択が重要です。制吐薬は主に以下の種類に分類されます。
主な制吐薬の種類と作用機序
抗がん剤治療による悪心・嘔吐に対しては、近年オランザピンを用いた新しい制吐療法が注目されています。従来オランザピンは眠気やふらつきの副作用が課題でしたが、用量を減らし内服時間を工夫することで、副作用を抑えながら高い効果が得られることが確認されています。特に、治療開始から2〜5日目の遅発期における嘔吐完全抑制割合を13%改善したとの報告があります。
ストレスや精神的要因による悪心に対しては、H2ブロッカーや制酸剤などの胃酸を抑える薬剤が有効なケースもあります。また、漢方薬(半夏厚朴湯など)も神経性胃炎や不安による胃腸の不調に効果を示すことがあります。
薬物療法を選択する際の原則は以下の通りです。
高齢者の悪心・嘔吐管理には特別な配慮が必要です。加齢に伴う生理機能の変化や基礎疾患の存在が、症状の出現様式や治療反応性に影響を及ぼすためです。
高齢者における悪心の特徴として、以下の点が挙げられます。
特に激しく嘔吐している高齢者では、脱水状態に陥りやすく、気づいた時には血圧低下など生命を脅かす状態になっていることがあります。水分摂取が難しい場合は、早期に点滴による水分補給を検討する必要があります。
また、高齢者では嘔吐により誤嚥性肺炎を引き起こすリスクが高く、適切な体位の管理や嚥下機能の評価が重要です。1か月以上悪心・嘔吐が持続する場合は、原因精査のために医師の診察を受けることを推奨します。
高齢者における制吐薬使用上の注意点
精神疾患治療中の患者では、薬剤性の悪心が治療アドヒアランスを低下させる大きな要因となります。特に抗うつ薬の服用開始時や増量時には、一時的に悪心・嘔吐が生じることが多いです。
抗うつ薬による悪心は、通常は服用開始後1〜2週間で体が慣れて症状が軽減することが多いですが、その間の対応が治療継続に重要です。以下の対応法が推奨されます。
抗うつ薬による悪心への対応策
また、精神疾患自体が身体症状として悪心を引き起こすこともあります。特に不安障害やパニック障害、身体症状症などでは、悪心が主訴となることがあります。このような場合、制吐薬による対症療法よりも、基礎疾患の治療が優先されます。
漢方薬は精神的ストレスによる胃腸症状に効果を示すことがあり、半夏厚朴湯は「気分がふさいで、喉や食道部に異物感のある方」や「不安で胃腸が不調になる方」に適しているとされています。心身両面にアプローチできる治療法として、西洋医学的治療と併用することも一つの選択肢です。
抗精神病薬であるオランザピンは、制吐療法としての有効性が認められています。しかし、眠気やふらつきなどの副作用が課題であるため、精神疾患治療中の患者にこれを制吐目的で使用する際は、既存の精神科薬物療法との相互作用や副作用の重複に十分注意する必要があります。
抗がん剤治療による悪心・嘔吐に対するオランザピンを用いた新しい制吐療法の詳細
精神・神経疾患患者の悪心管理においては、身体的要因と精神的要因の両面からアプローチし、薬物療法と非薬物療法を適切に組み合わせることが重要です。患者教育や認知行動療法などの心理的アプローチ、リラクゼーション技法なども補助的治療として有用なケースがあります。