潜在性甲状腺機能異常とは、甲状腺ホルモン値(遊離サイロキシン:FT4、遊離トリヨードサイロニン:FT3)が基準範囲内にあるにもかかわらず、甲状腺刺激ホルモン(TSH)値が基準範囲から逸脱している状態を指します。特に多いのが潜在性甲状腺機能低下症で、TSH値の上昇が特徴です。この状態は「体に必要な甲状腺ホルモンの量がわずかに足りていない状態」と言えます。
発症機序としては、脳の下垂体から分泌されるTSHが甲状腺からのホルモン分泌を促進するフィードバック機構が関わっています。甲状腺ホルモンがわずかに不足すると、下垂体がそれを感知してTSHの分泌を増加させ、甲状腺に「もっとホルモンを作りなさい」という指令を送ります。このため、甲状腺ホルモン値自体はなんとか正常範囲を保ちますが、TSH値だけが上昇するのです。
潜在性甲状腺機能異常の原因として最も多いのが橋本病(慢性甲状腺炎)です。橋本病は自己免疫疾患の一種で、甲状腺に対する自己抗体が産生され、徐々に甲状腺組織が破壊されていきます。その他の原因としては、以下のようなものが挙げられます。
潜在性甲状腺機能異常の有病率は決して低くなく、健康な人口の4~10%に認められると報告されています。特に女性に多く、年齢とともに増加する傾向があります。高齢の女性に限ると7~17.5%と高頻度に見られ、医療従事者として見逃してはならない病態です。
潜在性甲状腺機能異常の診断において、TSH値は最も重要な指標です。一般的に、TSH値の基準範囲は0.4~4.0μU/mLとされていますが、施設によって若干の差があります。潜在性甲状腺機能低下症の診断は、TSH値が基準上限を超え、かつFT4値が正常範囲内であることで確定します。
最新の知見によると、潜在性甲状腺機能低下症は、TSH値によってさらに細かく分類されることがあります。
この分類は治療方針の決定に重要です。近年の研究では、TSH値が10μU/mLを超える場合は、顕性甲状腺機能低下症への進行リスクが高まるため、積極的な治療が推奨されています。一方、軽度の場合は、年齢や合併症、症状の有無などを総合的に判断して治療方針を決定します。
診断にあたっては、一時的なTSH上昇と区別するために、1~3か月後の再検査が重要です。また、TSH値には日内変動があり、夜間に上昇するため、できるだけ午前中に採血することが望ましいとされています。
さらに、甲状腺自己抗体(抗TPO抗体、抗サイログロブリン抗体)の測定も診断に有用です。これらの抗体が陽性の場合、橋本病の可能性が高く、顕性甲状腺機能低下症への進行リスクも高まります。
最近のガイドラインでは、TSH値の上昇が持続的であることを確認した上で、以下の条件に該当する場合は治療を検討することが推奨されています。
潜在性甲状腺機能異常の最大の特徴は、明確な自覚症状がないか、あっても非常に軽微であることです。そのため、健康診断や人間ドッグなどの血液検査で偶然発見されることが多いのが実情です。しかし、注意深く観察すると、以下のような微妙な症状や兆候が認められることがあります。
身体的症状。
検査所見。
これらの症状や所見は非特異的であり、患者自身も「年齢のせい」「ストレス」などと考えて訴えないことも多いため、医療従事者が積極的に問診で引き出す必要があります。
特に見逃されやすい兆候として、心理的変化があります。軽度のうつ症状、不安感、集中力の低下などは甲状腺機能異常の初期症状として現れることがありますが、精神科的問題と誤解されやすいのです。
また、不妊に悩む女性の場合、潜在性甲状腺機能低下症が原因となっていることがあります。排卵障害や黄体機能不全を引き起こし、妊娠しにくい状態になっていることが考えられます。不妊治療を行う前に、甲状腺機能検査を実施することは非常に重要です。
高齢者の場合は、認知機能の軽度低下や抑うつ症状が潜在性甲状腺機能低下症によるものである可能性があります。しかし、高齢者ではTSH値が生理的に上昇することもあるため、診断には注意が必要です。
潜在性甲状腺機能低下症の治療において最も重要なのは、「誰を」「いつ」治療するかの判断です。すべての患者に一律に治療を行うべきではなく、個々の状況に応じた適切な判断が求められます。
治療開始の判断基準。
治療方法。
治療の中心は、レボチロキシン(L-T4)による補充療法です。これは体内の甲状腺ホルモンと同一の構造を持つ合成ホルモンで、適切な用量で使用すれば副作用の少ない安全な薬剤です。
初期用量は患者の年齢、体重、合併症などを考慮して決定します。一般的には以下のように設定されます。
治療開始後は、6~8週間ごとにTSH値を測定し、目標値(通常は0.4~4.0μU/mL)に達するまで用量を調整します。安定後は半年に1回程度の測定で経過観察します。
橋本病に関連する潜在性甲状腺機能低下症の場合、甲状腺自己抗体の存在により、時間の経過とともに甲状腺機能がさらに低下する可能性があります。そのため、治療開始後も定期的な経過観察が重要です。
治療によって期待される効果には、以下のようなものがあります。
一方で、過剰治療によるTSH抑制(潜在性甲状腺機能亢進症の状態)は、骨密度低下や心房細動リスク増加などの副作用をもたらす可能性があるため注意が必要です。
日本内分泌学会による甲状腺疾患診療ガイドライン2019のPDF - 潜在性甲状腺機能低下症の治療基準に関する詳細な情報
潜在性甲状腺機能低下症と生殖機能の関連性は、近年ますます注目されている分野です。甲状腺ホルモンは卵巣機能、排卵、受精、着床、胎児発育など、生殖過程のさまざまな段階に影響を与えることが明らかになっています。
潜在性甲状腺機能低下症が不妊に影響するメカニズム。
最新の研究では、TSH値が2.5μU/mL未満の女性に比べ、2.5~4.0μU/mLの女性では不妊や流産のリスクが高いことが報告されています。そのため、従来の基準値内でも、より低いTSH値を目指した治療が推奨されるようになってきています。
不妊治療における新たなアプローチ。
不妊治療医と内分泌専門医の連携がますます重要になっており、チーム医療による包括的なアプローチが求められています。甲状腺機能の最適化は、自然妊娠の可能性を高めるだけでなく、不妊治療の成功率向上にも寄与する可能性があります。
日本生殖医学会による甲状腺機能異常と不妊に関する研究報告 - 潜在性甲状腺機能低下症が生殖機能に与える影響の詳細データ
レボチロキシン治療を開始した不妊患者の追跡調査では、治療開始後6ヶ月以内に約40%の患者で自然妊娠が成立したとの報告もあり、潜在性甲状腺機能低下症の適切な管理が不妊治療の成功に重要な役割を果たしていることを示唆しています。