肝性脳症は、肝臓の機能が著しく低下することで、本来であれば処理されるはずの有害物質が血液中に蓄積され、それによって脳の働きに異常をきたす症候群です。肝臓本来の解毒作用が十分に機能しないことにより、意識障害やふらつき、性格の変化などの多様な神経症状が現れます。
肝性脳症の発症メカニズムは複合的で、主要な要因としては以下が挙げられます。
臨床的には、初期段階で不眠や集中力の低下、わずかな刺激による興奮といった変化として表れることがあります。その後、症状が進行すると羽ばたき振戦や意識障害へと発展していきます。
注目すべき点として、肝性脳症では血中アンモニア濃度と症状の重症度が必ずしも相関しないことがあります。これは肝性脳症の病態が単純なアンモニア中毒だけでなく、複数の因子が関与する複雑なメカニズムであることを示しています。
肝性脳症は1978年に開催された国際肝性脳症シンポジウムで確立された分類体系に基づき、A型・B型・C型の3つの主要な病型に分類されます。この分類は40年以上の歴史を持ち、現在も95%以上の症例に適用可能な信頼性の高い分類システムです。
A型肝性脳症
急性肝不全に関連した脳症で、劇症肝炎で見られることが特徴です。急激な肝機能低下によるアンモニアなどの神経毒性物質の急増により、短期間で重篤な症状が発現します。重要な点として、この型では分岐鎖アミノ酸製剤(アミノレバン)が禁忌とされており、治療に注意が必要です。
B型肝性脳症
門脈体循環シャント(肝臓を迂回する異常な血液の通り道)が主たる原因となる病型です。門脈血の30%以上が肝臓を迂回することで発症し、肝機能自体は比較的維持されているという特徴があります。シャントの程度によって症状の重症度が変化し、血流の50%以上が迂回すると明確な症状が顕在化します。
以下に、B型肝性脳症におけるシャントの程度と臨床像の関連を示します。
シャントの程度 | 臨床的影響 | 血流変化率 |
---|---|---|
軽度 | 潜在的症状のみ | 30%未満 |
中等度 | 症状顕在化 | 30-50% |
重度 | 明確な症状 | 50%以上 |
C型肝性脳症
慢性肝硬変に関連して発症する最も一般的な形態で、全肝性脳症患者の約60%がこの型に分類されます。肝硬変の進行度(Child-Pugh分類)に応じて症状が変化し、特にB級からC級に進行すると、発症リスクは40%以上に上昇します。慢性的な経過(平均2-5年)をたどり、段階的な症状進行が特徴です。
C型肝性脳症では以下の誘因に注意が必要です。
肝性脳症の診断は複合的なアプローチが必要であり、単一の検査だけで確定診断を下すことはできません。血中アンモニア値(NH3)は重要な指標ですが、これだけで診断するには限界があります。
血中アンモニア値の意義と限界
肝性脳症に対するNH3の診断能は感度37.5%、特異度66.7%と低く、肝性脳症であっても必ずしもNH3が上昇するとは限りません。また、NH3が上昇する疾患は他にも多く存在します。
重要なのは、「NH3高値=肝性脳症」という単純な図式ではなく、「肝性脳症における神経毒性の原因の一つがNH3である」という理解です。
診断のための総合評価
肝性脳症の診断には以下の要素を総合的に評価します。
診断のための医療面接では、飲酒歴(量、期間、最終飲酒)や肝性脳症の誘因となる高蛋白食、便秘、消化管出血、脱水、感染症、ベンゾジアゼピン系薬剤の使用について詳しく聴取することが重要です。
初発の肝性脳症と診断した場合は、HBs-Ag、HCV-Abなどの肝炎ウイルスマーカーの確認も必須となります。
日本肝臓学会による肝性脳症の診断ガイドライン(詳細な診断フローチャートが掲載されています)
肝性脳症の症状は多彩で、初期から進行期まで様々な神経精神症状が現れます。症状の重症度に基づいた分類システムが確立されており、治療方針決定や予後予測に重要な役割を果たしています。
West Haven Criteria(WHC)と国際肝性脳症・窒素代謝学会分類(ISHEN)
肝性脳症の重症度評価には主にWHCとISHENの2つの分類システムが使用されます。WHCでは症状の重症度によってGrade I~IVに分類され、ISHENでは不顕性と顕性の大きな2カテゴリーに分けられます。
WHC | ISHEN | 臨床症状 | 特徴的所見 |
---|---|---|---|
正常 | 正常 | 肝性脳症を示唆する所見なし | 検査正常 |
minimal | 不顕性 | 精神検査でわずかな異常あり | 精神状態、神経学的所見に微細な異常 |
Grade I | 顕性 | 多幸感、うつ、睡眠障害、時間・場所の見当識障害 | 変動性の意識障害、睡眠覚醒リズム障害 |
Grade II | 顕性 | 羽ばたき振戦(Asterixis)、失行、性格変化 | 時間の見当識障害、計算力低下 |
Grade III | 顕性 | 錯乱、傾眠 | 場所の見当識障害、反射異常 |
Grade IV | 顕性 | 昏睡 | 痛み刺激にも反応しない |
特徴的な臨床症状
肝性脳症の代表的な症状には以下のものがあります。
重要な点として、肝性脳症では電解質異常(低Na/K/Mgなど)を合併しやすく、これが症状を修飾・増悪させることがあるため注意が必要です。
肝性脳症の治療は、病型や重症度に応じた多角的なアプローチが必要です。基本的な治療戦略は高アンモニア血症の是正と原因となる因子の除去に焦点を当てています。
薬物療法のファーストライン
原因除去と支持療法
病型別の治療戦略
再発予防と長期管理
肝性脳症の再発予防には、以下の継続的なケアが重要です。
臨床現場で見落としがちなポイント
肝性脳症の治療において特に注意すべき点として、アルコール依存患者での離脱予防があります。肝性脳症とアルコール離脱せん妄の症状は一部重複するため、臨床判断が難しいことがあります。アルコール離脱予防にはセルシン®(ジアゼパム)の計画的な減量が効果的ですが、肝機能低下患者では代謝遅延による蓄積に注意が必要です。
最近の研究では、腸内細菌叢のバランス改善による肝性脳症の新たな治療アプローチが注目されています。プロバイオティクスの投与が腸内環境を改善し、アンモニア産生を抑制する可能性が示唆されています。
日本消化器病学会による肝性脳症治療ガイドライン(最新の治療推奨が記載されています)
肝性脳症の中でも、特に注目すべきは「潜在性(不顕性)肝性脳症」です。この状態は通常の診察では明らかな症状がなく見過ごされがちですが、長期的な予後に大きな影響を与える重要な病態です。
潜在性肝性脳症の特徴
潜在性肝性脳症は、通常の神経学的検査では異常を示さないものの、精密な神経心理学的検査や脳波検査で異常が検出される状態です。肝硬変患者の30-84%に存在するという報告があり、予想以上に高頻度に発生しています。
主な臨床的特徴。
診断アプローチ
潜在性肝性脳症の診断には、以下の検査が有用です。
臨床的重要性
潜在性肝性脳症は見過ごされがちですが、以下の点で臨床的に重要です。
治療的介入
潜在性肝性脳症に対する治療は、顕性脳症と同様の薬物療法が考慮されますが、費用対効果やQOL改善の観点から個別化が必要です。
特に、車の運転や精密機械操作など集中力を要する作業に従事する患者では、積極的な治療介入が考慮されるべきです。
潜在性肝性脳症の管理は、肝疾患の長期管理において重要な位置を占めており、肝臓専門医と神経内科医の協力的なアプローチが理想的です。定期的なスクリーニングと早期介入が長期的な予後改善につながる可能性があります。