腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう)は、私たちの腸管内、特に大腸に生息する微生物の総体を指します。その規模は驚くべきもので、ヒトの体内には約40兆〜1000兆個もの腸内細菌が存在し、種類は約1,000種類にも及びます。重量にして約1〜2kgと言われており、これはヒト成人の体細胞数(約60兆個)を大きく上回っています。
腸内細菌叢の総遺伝子数は約100万個と推定され、ヒトの遺伝子数(約2万個)の約50倍にも相当します。この膨大な遺伝子プールにより、腸内細菌叢は宿主であるヒトには備わっていない多様な代謝機能を担っています。
腸内細菌叢の構成は一人ひとり異なりますが、その形成は出生時から始まります。赤ちゃんは母親の産道を通過する際に最初の細菌と出会い、その後授乳期を経て、固形食への移行とともに腸内細菌叢は徐々に成熟していきます。腸内フローラの原型は生後3年までに形成され、この時期の菌叢構成が最も良好な状態であるとされています。
赤ちゃんとマイクロバイオーム 最初の1000日についての詳細情報
腸内細菌叢の主な機能には以下のようなものがあります。
近年のメタゲノム解析技術の発展により、これまで培養困難とされてきた腸内細菌の全容が明らかになりつつあり、その機能的特性に関する理解も深まっています。
腸内細菌叢は、その働きから大きく3つのグループに分類されています:善玉菌、悪玉菌、日和見菌です。健康な腸内環境では、これらの細菌群は「善玉菌2:悪玉菌1:日和見菌7」の理想的な比率でバランスを保っています。
善玉菌は主に乳酸菌やビフィズス菌などで、糖分や食物繊維を発酵させて乳酸や酢酸などの有機酸を産生します。これにより腸内環境を弱酸性に保ち、悪玉菌の増殖を抑制する役割を果たします。代表的な善玉菌には以下があります。
悪玉菌は、タンパク質を分解して腐敗物質を産生し、腸内環境をアルカリ性に傾ける特性を持ちます。過剰に増殖すると健康に悪影響を及ぼす可能性がありますが、タンパク質の分解という重要な役割も担っています。代表的な悪玉菌には。
日和見菌は腸内細菌の約7割を占め、腸内環境によって善玉菌にも悪玉菌にもなり得る「日和見」的な性質を持っています。優勢な菌群に合わせてその機能を発揮するため、健全な腸内環境を維持するためには善玉菌を優位にすることが重要です。
腸内細菌叢のバランスが崩れる「ディスバイオシス(dysbiosis)」の状態は、様々な疾患リスクと関連することが明らかになっています。
年齢とともに腸内細菌叢は変化し、特に高齢者では善玉菌の代表であるビフィズス菌が減少する傾向にあります。若年期には100億個以上あったビフィズス菌が、50〜60歳では約1億個にまで減少するという報告もあります。
腸内細菌叢移植療法(Fecal Microbiota Transplantation: FMT)は、健康なドナーから採取した糞便を患者に移植することで、患者の腸内細菌叢を健全な状態に再構築する治療法です。当初はクロストリジオイデス・ディフィシル(Clostridioides difficile)感染症の治療法として確立され、90%以上の高い治癒率を示していますが、近年では他の疾患への応用も進んでいます。
2025年4月に順天堂大学のグループから報告された研究では、潰瘍性大腸炎に対するFMTの効果と、「良いドナー」の条件が明らかにされました。この研究によると、特定の細菌種(「Alistipes」や「Oscillospiraceae UCG-002」など)がFMTの効果に関与しており、ドナーと患者の腸内細菌叢のマッチングが治療効果を左右する重要な要素であることが示されています。
潰瘍性大腸炎に対する腸内細菌移植療法の最新研究成果の詳細
FMTの臨床応用における重要なポイントは以下の通りです。
日本では2014年から潰瘍性大腸炎に対するFMT臨床研究が開始され、2023年には厚生労働省により「先進医療B」として承認されました。これまでに250名を超える潰瘍性大腸炎患者と200名以上の健康なドナーの協力により、貴重な臨床データが蓄積されています。
FMTの適応疾患は今後さらに拡大する可能性があり、炎症性腸疾患だけでなく、過敏性腸症候群、代謝性疾患、さらには精神・神経疾患への応用も研究されています。
腸内細菌叢の評価方法は近年急速に発展し、臨床現場でも活用されるようになってきました。主な検査法とその特徴について解説します。
腸内細菌検査の流れと解析方法の詳細解説
臨床解釈において重要なポイントは以下の通りです。
医療機関での活用においては、疾患リスクの評価や治療効果のモニタリング、個別化された栄養指導などに応用されています。特に、炎症性腸疾患や過敏性腸症候群、代謝性疾患などの患者管理において、補助的診断ツールとしての価値が高まっています。
腸内細菌叢の健全なバランスを維持・回復するための食事療法は、様々な疾患の予防や治療補助として注目されています。食事を通じた腸内細菌叢の調整は、薬物療法に比べて副作用が少なく、日常生活に取り入れやすいという利点があります。
腸内細菌叢を整えるための食事の基本原則は以下の通りです。
食事療法は単に特定の食品を摂取するだけでなく、食事パターン全体のバランスが重要です。例えば、地中海式食事法は腸内細菌叢の多様性向上と関連しており、様々な健康ベネフィットが報告されています。
また、腸内細菌叢の知見を活かした「先制医療(Preemptive Medicine)」の概念も広がりつつあります。これは疾患の発症前に腸内細菌叢の変化をバイオマーカーとして捉え、早期介入を行うというアプローチです。例えば。
腸内細菌叢の臨床活用に向けた専門家による解説
腸内細菌叢研究の進展により、個人の遺伝的背景や生活環境、既往歴などを考慮した「パーソナライズド・ニュートリション」の実現も期待されています。患者一人ひとりの腸内細菌叢プロファイルに基づいた個別化された食事指導は、慢性疾患の予防・管理における新たなアプローチとして注目されています。
臨床現場では、こうした最新の知見を踏まえ、従来の栄養指導に腸内細菌叢の視点を取り入れることで、より効果的な患者ケアを提供することが可能になります。特に、消化器疾患や代謝性疾患、免疫関連疾患を有する患者に対しては、腸内細菌叢を考慮した栄養指導が有益である可能性が高いでしょう。