正しいマスクをしていても、実は手袋の脱ぎ方ミスで院内感染が起きています。
感染経路別予防策とは、病原体の伝播経路に応じて実施する「追加的な感染対策」のことです。これは標準予防策(Standard Precautions)とは別の概念であり、両者を組み合わせることで初めて効果を発揮します。
標準予防策とは、「すべての患者の血液・体液・分泌物・排泄物(汗を除く)は感染性があるものとして取り扱う」という考え方に基づいた対策です。つまり前提です。
その上で、特定の感染症や症状が確認・疑われる場合に、接触感染予防策・飛沫感染予防策・空気感染予防策のいずれか(または複数)を追加します。この「追加」という概念を誤解すると、標準予防策を省略して経路別対応だけを行ってしまうという危険な現場習慣につながります。
日本看護協会や厚生労働省の感染対策ガイドラインでも、経路別予防策は「標準予防策に上乗せして実施する」と明記されています。これが原則です。
看護師が感染経路別予防策を正確に実践するためには、まず「なぜその経路から感染が起きるのか」という病態生理の理解が必要です。病原体の粒子サイズ・伝播距離・環境中での生存時間などの知識が、適切なPPE選択と患者配置の判断につながります。
現場では「とにかくN95をつけていれば安全」という過剰な安全への依存が見られることがあります。ただし、正しい着用方法・フィットテストを行っていないN95は、サージカルマスクよりも防護性が低くなるケースもあります。これは意外ですね。
接触感染(Contact Transmission)は、院内感染の中で最も発生頻度が高い感染経路です。直接接触(患者との身体的接触)と間接接触(汚染された環境表面・医療機器への接触)の2種類があります。
主な対象疾患は、MRSA・VRE・CREなどの多剤耐性菌感染症、ノロウイルス感染症、クロストリジウム・ディフィシル(C. diff)感染症などです。これらは接触経路が基本です。
接触感染予防策の基本的なPPEは「手袋+ガウン(または長袖エプロン)」の組み合わせです。ただし、CDCのガイドライン(2007年改訂版)では、手袋とガウンは「患者の部屋に入る前」に装着することが推奨されています。多くの現場では「処置前につける」という認識が多いのですが、部屋への入室前装着が正解です。
特に注意すべきなのが脱衣手順です。手袋を外した後に、無意識に顔や目を触る行動が感染リスクを高めます。手袋を外す際は「バナナの皮をむくように」内側に折り込みながら外し、脱いだ後は必ず手指衛生を行ってからガウンを外します。
C. diff(クロストリジウム・ディフィシル)の芽胞はアルコール手指消毒剤では不活化できません。C. diffが疑われる・確定している場合は、石けんと流水での手洗いが必須です。これだけは例外です。
環境整備も接触感染予防策の重要な柱です。患者周辺の高頻度接触面(ベッド柵・ナースコール・ドアノブなど)は、少なくとも1日1回以上の清拭消毒が推奨されます。使用する消毒剤の濃度と接触時間(ウェットタイム)を守ることも、消毒効果を担保するために不可欠です。
国立感染症研究所 – 感染経路と感染対策の最新情報(感染経路の種類・対策の科学的根拠)
飛沫感染(Droplet Transmission)は、感染者の咳・くしゃみ・会話・吸引処置などで発生する飛沫(5μm以上の粒子)が、近距離(一般的に1〜2m以内)にいる人の粘膜に付着することで成立する感染経路です。
インフルエンザ・百日咳・マイコプラズマ肺炎・流行性耳下腺炎(ムンプス)などが主な対象疾患です。数字が重要です。飛沫の到達距離は「通常1〜2m」とされますが、2020年以降の研究では、一部の条件下で2m以上に達する可能性も示されています。
飛沫感染予防策のPPEはサージカルマスクが中心です。空気感染予防策で使用するN95マスクは不要ですが、眼への曝露リスクがある場合(飛沫が目に入る可能性がある処置)はフェイスシールドやゴーグルの追加が推奨されます。
患者には「サージカルマスクの着用(咳エチケット)」を指導します。これは重要な感染源対策です。患者自身がマスクをつけることで、飛沫の拡散範囲を大幅に減らせます。
病室の配置については、飛沫感染予防策では「個室管理が望ましい」とされていますが、個室が不足している場合はコホーティング(同一疾患患者をまとめる)が許容されます。ベッド間距離は少なくとも1m(できれば2m)確保することが推奨されます。これが条件です。
また、エアロゾルが発生する処置(気管吸引・気管内挿管・ネブライザー療法など)を飛沫感染対策患者に実施する場合は、飛沫感染予防策だけでなく空気感染予防策(N95マスク)に切り替える必要があります。エアロゾル産生処置(AGP)の概念は現場での判断に直結します。
厚生労働省 – 感染症対策に関するガイドライン・通知(飛沫・接触感染対策の行政指針)
空気感染(Airborne Transmission)は、飛沫核(5μm以下の微細粒子)が長時間空気中に浮遊し、換気の悪い空間で離れた場所にいる人にも感染を引き起こす経路です。結核・麻疹・水痘(水ぼうそう)の3疾患が代表的な対象疾患です。
空気感染予防策では、N95マスク(またはそれ以上の規格のマスク)の着用と、陰圧個室への患者収容が原則です。陰圧室が原則です。N95マスクは、0.3μmの粒子を95%以上捕集する性能を持ちますが、正しいフィットがなければその性能は発揮されません。
N95マスクには「フィットテスト(Fit Test)」が必須です。日本国内では全医療従事者への定期的なフィットテスト実施が普及しているとは言えない状況ですが、CDCおよびWHOはすべてのN95使用者に年1回以上のフィットテストを推奨しています。これは有名な話のようで、実施率が低い施設も多いのが現状です。
陰圧室の管理も重要な看護の役割です。陰圧室は「廊下に対して室内の気圧が低い状態」を維持することで、空気の流れを室内→廊下方向に限定し、病原体の拡散を防ぎます。陰圧の確認(煙テスト・差圧計確認)は、患者入室前と入室後の定期確認が必要です。
麻疹・水痘は、免疫を持たない医療従事者への感染リスクが特に高い疾患です。これらの患者を担当する場合は、抗体価の確認が先決です。免疫がない状態での担当は原則として避けるべきであり、ワクチン接種・抗体検査の管理は施設全体の感染管理プログラムの一部です。
国立感染症研究所 IASR – 結核の感染対策と空気感染予防策の実践(結核を中心とした空気感染対策の実例)
感染経路別予防策の中で、PPEの使用や患者隔離に比べて軽視されやすいのが「環境・物品管理」と「手指衛生の質」です。どういうことでしょうか?
手指衛生は感染対策の基本中の基本とされていますが、WHOの調査によると医療従事者の手指衛生遵守率は平均40%程度にとどまるとされています。これは驚きの数字ですね。看護師・医師・技師を含めた全医療スタッフのデータであり、「適切なタイミング・適切な手技」の両方を満たすケースはさらに少ないとも言われています。
WHOは「手指衛生の5つの瞬間(My 5 Moments for Hand Hygiene)」を提唱しています。具体的には①患者に触れる前、②清潔・無菌操作の前、③体液に曝露した後、④患者に触れた後、⑤患者周辺環境に触れた後の5つです。この5つが基本です。
現場では「④患者に触れた後」は比較的遵守されやすいですが、「①患者に触れる前」「②清潔操作の前」での手指衛生が抜けやすいことが複数の観察研究で示されています。
環境清拭については、多剤耐性菌(MRSA・VREなど)の多くは乾燥した環境表面でも数時間〜数週間生存できます。VREに至っては病院の表面上で最大5〜7週間生存したという報告もあります。これは注意が必要です。
聴診器・血圧計・体温計などの共有医療器具は接触感染の媒介になりやすいため、患者ごとの専用化または使用後の消毒が必要です。「前の患者から外した聴診器をそのまま次の患者に当てる」という行為は、見えない接触感染リスクを生み出しています。
WHO手指衛生テクニカルリファレンスマニュアル(日本語版)– 手指衛生の5つの瞬間・正しい手技の解説
多剤耐性菌(AMR:Antimicrobial Resistance)感染症への対応は、感染経路別予防策の中でも特に臨床上の重要性が高まっています。AMR対策は今や国家戦略です。
MRSAは接触感染が主な伝播経路であり、接触感染予防策(手袋・ガウン+個室または同室コホーティング)が基本です。ただし、鼻腔保菌者(医療従事者を含む)からの伝播リスクも無視できません。日本国内では2020年代に入ってもMRSAは院内感染の主要原因菌の一つです。
VRE(バンコマイシン耐性腸球菌)も接触感染が主経路ですが、前述のとおり環境中での生存期間が長い(最大7週間)という特性から、環境管理の徹底が特に重要です。また、消毒には次亜塩素酸ナトリウム(0.1%濃度以上)の使用が推奨されます。アルコールのみの清拭は不十分です。
CRE(カルバペネム耐性腸内細菌目細菌)は近年増加傾向にある多剤耐性菌で、日本の感染症法では5類感染症に分類されています。CREの検出時には接触感染予防策に加え、施設内での発生状況の把握・報告が求められます。
これらの多剤耐性菌については、「スクリーニング検査(保菌サーベイランス)」の実施が感染拡大防止に有効とされています。入院時・転棟時・長期入院患者への定期的なスクリーニングは、保菌者を早期に把握し適切な隔離対応を行うための重要な手段です。スクリーニングが鍵です。
また、抗菌薬適正使用(Antimicrobial Stewardship:AMS)は感染経路別予防策と並行して実施すべき取り組みです。多剤耐性菌の出現を抑制するためには、感染制御担当看護師(ICN・CNIC)と感染管理チーム(ICT)が連携した施設全体のアプローチが欠かせません。
AMR臨床リファレンスセンター – 多剤耐性菌の種類と感染対策(MRSA・VRE・CREの解説と対策指針)