抗菌薬の発見は現代医療における最も重要な進歩の一つでしたが、現在私たちは深刻な危機に直面しています。耐性菌の出現と増加により、これまで簡単に治療できていた感染症が治療困難になっています。
耐性菌とは、抗菌薬が効きにくくなった細菌のことを指します。これらの細菌は突然変異や薬剤耐性遺伝子の獲得などにより、抗菌薬の攻撃から身を守る能力を獲得しています。特に問題なのは、複数の抗菌薬に耐性を持つ「多剤耐性菌」の存在です。
耐性菌による感染症の特徴として以下のような問題があります。
例えば、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に感染すると、一般的な黄色ブドウ球菌感染症よりも合併症を発症するリスクが1.69倍になるという報告があります。また、中枢神経系の後遺症リスクが1.7倍、四肢喪失のリスクが1.13倍に上昇するという推計も示されています。
耐性菌による感染症は、患者の生命を脅かすだけでなく、医療経済にも大きな影響を与えています。
世界保健機関(WHO)の報告によると、耐性菌による感染症は治療期間の長期化を招き、患者と医療システム双方の負担を増大させています。特に深刻なのは、カルバペネム耐性腸内細菌科細菌(CRE)による感染症で、死亡率は通常の細菌感染症と比較して著しく高くなっています。
耐性菌感染症による具体的な経済的・人的影響は以下の通りです。
英国の報告(オニールレポート)によれば、現在のペースで耐性菌が増え続けると、2050年には年間1000万人以上が耐性菌感染症により命を落とすと予測されています。これはがんによる死亡者数(年間820万人)を上回る数字です。現在でも年間約70万人が耐性菌が原因で亡くなっているとされ、この問題の深刻さを示しています。
カルバペネム耐性感染症の患者が腸内細菌目細菌に感染した場合の死亡率は50%にも達するという報告もあり、一部の耐性菌感染症がいかに致命的であるかを物語っています。
耐性菌の増加には複数の要因が関与していますが、最も重要な原因の一つが抗菌薬の不適切な使用です。抗菌薬の過剰処方や不適切な服用が耐性菌発生のリスクを高めています。
抗菌薬は細菌感染症にのみ効果があり、ウイルス性感染症には効果がありません。しかし、風邪やインフルエンザなどのウイルス感染症に対しても抗菌薬が処方されることがあり、これが耐性菌増加の一因となっています。
耐性菌発生の主な原因として以下が挙げられます。
抗菌薬を使用すると、標的となる病原菌だけでなく人体内の有益な常在菌も死滅させることがあります。その結果、通常は少数派である薬剤耐性菌が増殖する環境が生まれます。特に注目すべきは「中途半端な抗菌薬使用」が耐性菌発生のリスクを高めるという点です。抗菌薬を医師の指示通りに服用せず、症状が改善したからといって途中で服用を中止すると、生き残った細菌が耐性を獲得しやすくなります。
耐性菌問題は深刻ですが、適切な対策を取ることでその拡大を防ぐことが可能です。医療従事者と患者双方が協力して取り組むべき重要な対策を以下にまとめます。
医療従事者が実践すべき対策:
患者が実践すべき対策:
特に重要なのは、医療従事者が抗菌薬処方の際に「この症例に本当に抗菌薬が必要か?」「最も適切な抗菌薬は何か?」「最適な投与期間はどれくらいか?」を常に考えることです。また、患者に対して抗菌薬の適切な使用方法と耐性菌問題について教育することも重要です。
厚生労働省の薬剤耐性(AMR)対策アクションプランについての詳細はこちら
耐性菌問題が深刻化する中、研究開発の現状と未来の展望についても理解しておくことが重要です。残念ながら、新たな抗菌薬の開発は過去数十年で大幅に減少しています。
新規抗菌薬開発の停滞要因:
この結果、製薬企業の多くが抗菌薬開発から撤退し、抗菌薬パイプラインの枯渇が進んでいます。しかし、この危機的状況に対応するため、いくつかの新しいアプローチが模索されています。
新たな研究アプローチ:
特に注目されているのが、従来の抗菌薬とは全く異なるメカニズムで細菌に対抗する「アンチバイオティクス・アジュバント」と呼ばれる補助薬の開発です。これらは既存の抗菌薬の効果を高めたり、耐性菌の耐性メカニズムを無効化したりする働きを持ちます。
また、公的資金やグローバルパートナーシップを活用した新たな研究開発モデルも提案されています。例えば、CARB-X(Combating Antibiotic-Resistant Bacteria Biopharmaceutical Accelerator)は、耐性菌に対する新たな治療法の開発を支援するグローバルなパートナーシップです。
国立感染症研究所による耐性菌への取り組みについては詳しくはこちら
耐性菌問題は、個々の医療機関の問題ではなく、社会全体で取り組むべきグローバルな課題です。医療従事者、患者、製薬企業、政府、そして国際機関が協力し、「ワンヘルス」アプローチで対策を進めることが求められています。
最後に、耐性菌問題は私たち一人ひとりの行動が積み重なって生じている問題でもあります。医療従事者として、抗菌薬の適正使用に努めるとともに、患者への教育や啓発活動にも積極的に取り組むことが重要です。将来世代のために効果的な抗菌薬を残していくという責任を、私たち全員が共有する必要があります。