サージカルマスクを正しく装着していても、あなたの飛沫感染リスクは最大40%しか下がっていません。
飛沫感染とは、感染者が咳・くしゃみ・会話などをした際に口や鼻から飛び出す直径5μm(マイクロメートル)以上の粒子(飛沫)が、他者の粘膜に直接付着することで成立する感染経路です。インフルエンザ、RSウイルス、百日咳、そして新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の一部感染様式がこれに該当します。
飛沫は重力の影響を受けるため、放出後およそ1〜2m以内に落下するとされています。これが「飛沫感染予防には1〜2mの距離を保つ」という指針の根拠です。ただし、強い咳やくしゃみが発生した場合は最大5〜8m先まで到達するという研究報告もあり(MIT 2020年のBuskeら研究)、この数値は現場での安全距離の再考を促します。
つまり、「1m離れていれば安全」は絶対ではないということです。
飛沫感染と空気感染(飛沫核感染)は混同されがちですが、明確な違いがあります。空気感染は直径5μm未満の飛沫核が長時間空気中を漂い遠距離まで到達するもので、結核・麻疹・水痘が該当します。一方、飛沫感染はより大きな粒子が短距離で落下するため、近距離接触が主な感染機会です。この区別が、使用すべきPPEの種類を決定する判断基準になります。
看護師が患者に直接ケアを提供する場面、とりわけ口腔ケア・気管吸引・ネブライザー治療・挿管介助などのエアロゾル産生処置(AGP)では、飛沫と空気感染の両方への対策が必要です。エアロゾル産生処置時はN95マスクの使用が推奨されており、サージカルマスクだけでは不十分な場面が存在します。これは基本です。
| 感染経路 | 粒子サイズ | 到達距離 | 代表疾患 | 必要なPPE |
|---|---|---|---|---|
| 飛沫感染 | 5μm以上 | 1〜2m(最大8m) | インフルエンザ、コロナ、百日咳 | サージカルマスク、フェイスシールド |
| 空気感染(飛沫核) | 5μm未満 | 室内全域 | 結核、麻疹、水痘 | N95マスク、陰圧室 |
| 接触感染 | — | 直接・間接接触 | ノロウイルス、MRSA | 手袋、ガウン、手指衛生 |
感染経路を正確に把握することが、適切なPPE選択の土台になります。「なんとなくマスクをしている」ではなく、「なぜそのPPEが必要か」を理解した上でケアに臨むことが、医療従事者としての感染対策の基本姿勢です。
参考:感染経路と飛沫・空気感染の違いについて、国立感染症研究所の解説が詳しい。
PPEの選択を誤ると、装着していても感染リスクが下がらない場合があります。これは意外ですね。
飛沫感染予防策として使用するPPEは、場面と疾患に応じて適切に選ぶことが重要です。標準的な飛沫予防策では、以下のPPEが使用されます。
エアロゾル産生処置(気管内吸引・挿管・ネブライザーなど)を行う際はN95マスクへの切り替えが必要です。N95はサージカルマスクとは別物です。N95マスクはJIS T 9001またはNIOSH規格に準拠し、0.3μm以上の微粒子を95%以上捕集する性能を持ちます。サージカルマスクにはこの規格が適用されないため、エアロゾル環境では防護効率が大きく異なります。
PPEの装着順序は「マスク→ゴーグル/フェイスシールド→ガウン→手袋」が基本です。
脱着(ドフィング)の手順を誤ると、汚染面が顔や手に触れて自己汚染につながります。CDCガイドラインでは「手袋→ガウン→手指衛生→ゴーグル/フェイスシールド→手指衛生→マスク→手指衛生」の順が推奨されています。最もリスクが高い脱着ミスは「マスクを最初に外すこと」で、これにより顔面への汚染が起きやすくなります。
| 手順 | 着装(ドニング) | 脱着(ドフィング) |
|---|---|---|
| 1 | 手指衛生 | 手袋を外す(外側を内側に包む) |
| 2 | マスク装着 | 手指衛生 |
| 3 | ゴーグル/フェイスシールド | ガウンを外す(外側を内側に) |
| 4 | ガウン着用 | 手指衛生 |
| 5 | 手袋装着 | ゴーグル/フェイスシールドを外す |
| 6 | — | 手指衛生→マスクを外す→手指衛生 |
また、マスクの「サイズ感」も軽視できない要素です。顔との密着が不十分だと、マスク側面からの漏れが生じ、防護効果は大きく低下します。厚生労働省の調査では、フィット不良のサージカルマスクは正しく装着した場合に比べて防護効率が最大で30〜40%低下するとされています。これが冒頭で触れた「40%しか下がっていない」という数字の背景です。
PPEは装着するだけでなく「正しく装着・正しく脱着する」ことが感染予防の条件です。
参考:CDC(米国疾病管理予防センター)によるPPEの着脱手順の詳細は下記参照。
PPEだけでは病棟全体の飛沫感染リスクは管理できません。環境面の整備が不可欠です。
ゾーニングとは、病院内をリスクレベルに応じた区域に分け、感染拡大を空間的に遮断する手法です。清潔区域(グリーンゾーン)・準清潔区域(イエローゾーン)・汚染区域(レッドゾーン)の3段階に分けて管理するのが一般的です。飛沫感染リスクの高い患者(インフルエンザ・COVID-19疑いなど)は個室またはコホート(同一疾患患者のグループ管理)に収容し、レッドゾーンとして区画します。
ゾーニングが徹底されていない病棟では、感染患者と非感染患者が同じ廊下を共有することになり、飛沫が付着した環境表面(ナースステーションのデスク・ドアノブ・カーテンレールなど)が感染の「橋渡し」になります。これは大きなリスクです。
換気管理も飛沫感染対策の重要な柱です。厚生労働省の「医療機関における感染対策指針」では、一般病室の換気回数は1時間あたり6回以上(理想は12回以上)が推奨されています。換気回数が少ない閉鎖空間では、飛沫粒子が空気中に滞留する時間が延びるため、短距離だけでなく中距離への感染リスクも生じます。空調設備のフィルター管理も定期的に実施することが求められます。
環境表面の汚染については、飛沫が付着したドアノブなどから次の接触者への間接的な感染(接触感染との複合)が起こりうることも見逃せません。飛沫感染対策と接触感染対策は切り離さず、セットで実施するのが原則です。
参考:厚生労働省「医療機関等における感染対策の手引き」
厚生労働省:感染症対策に関する情報ページ
患者や家族への教育が不十分だと、病棟内での飛沫感染リスクは医療従事者の努力だけでは抑えきれません。
患者が自発的に咳エチケットを実践することは、病棟内の飛沫拡散を大きく抑制する効果があります。WHOの推計では、適切な咳エチケットと手指衛生の組み合わせにより呼吸器感染症の伝播リスクが最大で約70%低下するとされています。この数字は大きいですね。
咳エチケットの具体的な指導内容としては、「ティッシュや袖の内側で口・鼻を覆う」「使用したティッシュはすぐに廃棄し手指衛生を行う」「症状があるときはサージカルマスクを着用する」の3点が核心です。ポイントは「手のひらで覆わないこと」で、手のひらを使うと飛沫が付着した手で環境表面を汚染してしまいます。
家族への面会指導も重要です。感染リスクの高い患者の病室へ面会に来る家族は、マスク着用の義務化・面会時間の制限・面会前後の手指衛生の徹底を求める必要があります。特に小児や高齢の家族は無症状でもウイルスを保有している可能性があるため、面会前の体調チェックと簡単な問診が有効です。
教育の場面では、一度口頭で説明するだけでなく、視覚教材(ポスター・イラストシート)の活用が理解度を高めます。国立感染症研究所や厚生労働省が無料で提供している感染予防ポスターを病室・廊下に掲示することで、患者・家族が自発的に確認できる環境を整えられます。これは使えそうです。
患者・家族の理解度が高まるほど、病棟全体の感染リスクは下がります。看護師が直接ケアで感染対策を徹底するだけでなく、患者・家族を「感染対策の実践者」として育てることが、飛沫感染予防の最終的な目的です。
ナースコールのボタンと電子カルテ端末は、飛沫感染予防策の中で最も見落とされやすい「汚染ホットスポット」です。
一般的な飛沫感染対策の議論では、マスク・ガウン・ゾーニングに注目が集まります。しかし実際の病棟環境では、患者が繰り返し触れるナースコールボタン、看護師が複数の患者に対応するたびに触るタブレット端末・電子カルテのキーボードが、飛沫と接触感染の「架け橋」になっているケースが少なくありません。
ある医療機関の院内感染調査では、電子カルテ端末のキーボードから検出された病原菌の種類は平均で1台あたり3〜5種類にのぼり、その中にMRSAや肺炎桿菌が含まれていた事例が報告されています。これは重大なリスクです。飛沫感染は飛沫が粘膜に直接付着するだけでなく、飛沫が落下した環境表面から手を介して粘膜に運ばれる「間接的な飛沫感染経路」も成立するため、端末の汚染管理は飛沫感染対策の一環として位置づけるべきです。
対策として有効なのは、患者ベッドサイドのナースコールや各種スイッチへの「抗菌フィルム(抗菌シート)」の貼付と、電子カルテ端末への「キーボードカバー(シリコン製・アルコール対応)」の使用です。抗菌フィルムは銅イオン・銀イオン系の製品が市販されており、接触感染リスクを継続的に低減する効果が期待できます。1枚あたりのコストは数百円程度であり、感染による追加医療費と比較すれば経済的なメリットは明らかです。
清拭に使用するアルコール製剤は70〜80%エタノール濃度のものが有効で、次亜塩素酸ナトリウム(0.05〜0.1%)も使用可能ですが金属腐食のリスクがあるため使用箇所に注意が必要です。感染対策の視点から「触れる物すべてを管理する」という意識を病棟全体で共有することが、飛沫感染予防の実効性を高める鍵になります。
参考:院内感染対策のサーベイランスと環境清掃の指針については以下を参照。
国立感染症研究所:IASR(院内感染対策サーベイランス関連情報)