グリシンは中枢神経系において抑制性神経伝達物質として機能する最小のアミノ酸です。脳内では主にGABAと並んで抑制性のシグナル伝達を担い、神経系の過剰な興奮を抑制する役割を果たしています。特に重要なのは、グリシンがNMDA受容体の共活性化因子(co-agonist)として作用する点です。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10379184/
NMDA受容体はグルタミン酸受容体の一種で、記憶や学習といった高次脳機能に深く関与しています。この受容体が適切に機能するためには、グルタミン酸とグリシンの両方が必要です。統合失調症やうつ病などの精神疾患では、NMDA受容体の機能低下が病態に関与していると考えられており、グリシンによる受容体機能の賦活が治療的意義を持つ可能性が示唆されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5069295/
動物実験では、グリシンまたはD-セリンの投与により脳内セロトニン濃度が増加することが確認されており、これが睡眠改善や統合失調症の陰性症状改善に関与すると考えられています。セロトニンは抑制性神経伝達物質の一つで、脳内で不足するとうつ症状を引き起こすことが知られているため、グリシンによるセロトニン増加作用は抗うつ効果の重要なメカニズムと考えられます。
参考)グリシン 
統合失調症の陰性症状は、自閉、感情鈍麻、意欲低下などを特徴とし、うつ病の症状と類似した側面を持ちます。臨床研究において、慢性統合失調症患者11名に対してグリシンを1日あたり0.8g/kg、6週間投与したところ、統合失調症の陰性症状の改善とともに抑うつ症状および認知機能の改善が認められました。
参考)グルタミン酸神経系賦活による統合失調症治療薬創製アプローチ
この作用機序として、グリシンがNMDA受容体のグリシン調節部位に結合することで受容体機能を賦活し、グルタミン酸神経系の機能を高めることが考えられています。統合失調症ではNMDA受容体機能低下が病態の一因とされており、グリシン投与による受容体機能の正常化が陰性症状の改善につながると推定されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC8517243/
さらに、グリシン再取り込み阻害薬であるビトペルチン(RG1678)を用いた第II相臨床試験では、陰性症状が優勢な統合失調症患者において、10mg投与群でプラセボ群と比較して陰性症状の有意な改善が認められました。この結果は、グリシン系の薬理学的調節が陰性症状、すなわちうつ病様症状の治療に有用である可能性を示唆しています。
参考)統合失調症の陰性症状改善へ、グリシン再取り込み阻害|医師向け…
グリシンの抗うつ効果は、睡眠の質の改善を介した間接的な作用も関与していると考えられます。グリシンを経口投与すると、脳内の視交叉上核に存在するNMDA受容体に作用し、末梢血流を増加させることで深部体温を低下させます。この体温調節作用により、自然な入眠が促進され、深い睡眠(徐波睡眠)への到達時間が短縮されることが報告されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4397399/
睡眠の質の低下はうつ病の主要な症状の一つであり、睡眠障害自体がうつ症状を悪化させる要因となります。グリシン投与により睡眠の質が改善されることで、日中の疲労感や眠気が軽減され、作業効率が向上することが複数の研究で示されています。良質な睡眠の確保は精神的健康の維持に不可欠であり、グリシンによる睡眠改善作用が間接的に抗うつ効果をもたらしている可能性があります。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3174993/
動物実験では、グリシンの末梢投与により血漿および脳脊髄液中のグリシン濃度が大幅に増加し、皮膚血流量の増加に伴い深部体温が低下することが確認されています。睡眠開始時の深部体温低下は質の高い睡眠に重要であるため、グリシンの体温調節作用は睡眠の質を改善し、結果として精神症状の改善につながると考えられます。
参考)睡眠改善食品
近年の研究では、グリシンが抗炎症作用を持つことが明らかになっており、これがうつ症状の改善に寄与する可能性が注目されています。グリシンは炎症性サイトカインの産生を抑制し、遊離脂肪酸濃度を低下させ、インスリン応答を改善する作用を持ちます。この作用機序には、核内因子カッパB(NF-κB)の発現調節が関与していると考えられています。
参考)https://www.mdpi.com/1422-0067/24/14/11236/pdf?version=1688796863
うつ病と炎症の関連性は多くの研究で指摘されており、うつ病患者では血中の炎症性サイトカイン濃度が上昇していることが知られています。グリシンの抗炎症作用により、全身性の炎症反応が抑制され、これが脳内の神経炎症を軽減することで抗うつ効果を発揮する可能性があります。
また、グリシンは糖・脂質代謝の改善にも寄与します。肥満糖尿病モデルマウスを用いた研究では、グリシンの摂取により肝臓における脂質組成の質的変化が生じ、インスリン抵抗性が改善されることが報告されています。代謝異常とうつ病は相互に関連しており、メタボリックシンドロームや糖尿病患者ではうつ病の発症リスクが高いことが知られています。グリシンによる代謝改善作用が、間接的にうつ症状の軽減に貢献している可能性があります。
参考)https://jair.repo.nii.ac.jp/record/2002269/files/MDK2047-ronyou.pdf
グリシンの臨床応用においては、適切な摂取量の設定が重要です。睡眠改善効果に関する研究では、就寝前にグリシン3,000mgを摂取することで効果が認められています。統合失調症の陰性症状改善に関する研究では、体重1kgあたり0.8g、すなわち体重60kgの成人で約48gという高用量が用いられました。
参考)味の素(株)「グリナ」
グリシンは食品添加物としても広く使用されており、食品安全委員会や世界保健機関(WHO)によって安全性が評価されています。非必須アミノ酸であるため体内で合成可能であり、過剰分は主に尿として排出されるため、蓄積による健康リスクは低いとされています。
参考)グリシン 効果とは?睡眠や美肌へのパワーを徹底解説 href="https://asitano.jp/article/8010" target="_blank">https://asitano.jp/article/8010amp;#82…
ただし、腎臓や肝臓に重篤な疾患がある患者、妊娠中または授乳中の女性、特定の向精神薬を服用中の患者では注意が必要です。特に統合失調症の治療薬など、脳の神経伝達物質に作用する薬剤を服用している場合は、グリシンが薬剤の効果に影響を与える可能性があるため、必ず医師または薬剤師に相談することが推奨されます。臨床現場では、患者の病態や併用薬を十分に考慮した上で、グリシンの使用を検討する必要があります。
参考)グリシンの効果とは?睡眠や美肌への知られざるパワーを徹底解説…
一般的な副作用としては、高用量摂取時の胃腸障害が報告されていますが、重篤な有害事象の報告は限定的です。ビトペルチンを用いた臨床試験においても、概ね忍容性が認められ、安全性プロファイルは良好であったと報告されています。
参考)https://www.chugai-pharm.co.jp/news/cont_file_dl.php?f=101206jGlyT-1.pdfamp;src=%5B%250%5D%2C%5B%251%5Damp;rep=2%2C531
<表:グリシンの主な作用と推奨摂取量>
| 作用 | メカニズム | 推奨摂取量 | 参考文献 | 
|---|---|---|---|
| 睡眠改善 | NMDA受容体作用による体温調節 | 3,000mg/日 |  | 
| 陰性症状改善 | グルタミン酸神経系賦活 | 0.8g/kg体重/日 |  | 
| 抗炎症作用 | NF-κB発現調節 | 研究段階 |  | 
| セロトニン増加 | 神経伝達物質調節 | 2g/kg体重(動物実験) |  | 
グリシンのうつ症状に対する効果は、主に統合失調症の陰性症状改善という文脈で研究されてきましたが、その作用機序から一般的なうつ病への応用可能性も示唆されています。しかし、現時点では大規模な臨床試験が不足しており、うつ病の標準治療としての確立には至っていません。
グリシン再取り込み阻害薬の開発は、グリシンを直接投与する方法よりも効率的にシナプス間隙のグリシン濃度を上昇させる手段として期待されています。ビトペルチンの臨床試験結果は、この戦略の有効性を示唆していますが、用量依存性の問題や最適な投与量の設定など、解決すべき課題も残されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3023951/
今後は、うつ病患者を対象とした大規模無作為化比較試験の実施が必要です。特に、既存の抗うつ薬との併用効果や、治療抵抗性うつ病に対する補助療法としての有用性を検証することが重要です。また、グリシンの効果を予測するバイオマーカーの同定や、効果が期待できる患者群の特定も、精密医療の観点から重要な研究課題となります。
参考)[研究成果]「うつ病改善に重要な神経栄養因子の分泌」に抗うつ…
グリシンは安全性が高く、食品としても摂取されているアミノ酸であるため、サプリメントとしての利用可能性も高いと言えます。しかし、医療従事者としては、エビデンスに基づいた適切な情報提供と、患者の病態に応じた慎重な判断が求められます。グリシンの抗うつ効果に関する研究の進展により、将来的には新たな治療選択肢の一つとして確立される可能性があります。
<参考リンク>
グリシンの抗炎症作用に関する総説(NIH公開論文)
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10379184/
グリシン再取り込み阻害薬の統合失調症治療への応用に関する論文
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3023951/
グリシンの睡眠促進作用とNMDA受容体に関する研究
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4397399/