糸状角膜炎は、角膜表面に糸状の構造物が形成される疾患で、その病態は複雑な多因子性を示している。角膜上皮の正常な入れ替わりが何らかの理由で阻害され、古い細胞が涙液で洗い流されずに糸状物として残存することが根本的な問題である。
この疾患が治らない主要な理由として、以下の要因が挙げられる。
特に注目すべきは、糸状物の組成が単純な角膜上皮細胞だけでなく、ムチンや線維成分を含む複合体であることが判明している点である。この複雑な構造が、糸状物の強固な付着と再発しやすさに関与していると考えられる。
糸状角膜炎が治らない場合、原因疾患に応じた個別化治療が必要である。各原因に対する具体的なアプローチを以下に示す。
ドライアイ関連糸状角膜炎
重度のドライアイに伴う糸状角膜炎では、従来のヒアルロン酸点眼だけでは不十分である。ムコスタ点眼(レバミピド)が第一選択薬として推奨されており、ムチン分泌を促進することで角膜表面の安定性を向上させる。さらに、涙点プラグの挿入による涙液貯留効果が著効する症例も報告されている。
眼瞼機能異常関連糸状角膜炎
眼瞼下垂や兎眼による角膜の露出過多は、機械的刺激と乾燥の両方を引き起こす。これらの症例では、保存的治療の限界が明確であり、眼瞼手術による根本的治療が検討される。京都府立医科大学の報告では、13例17眼の難治性糸状角膜炎に対する眼瞼手術で長期完治が得られている。
神経麻痺性角膜症関連糸状角膜炎
三叉神経や顔面神経の麻痺による角膜知覚低下は、角膜上皮の再生機転を著しく障害する。これらの症例では、治療用コンタクトレンズによる機械的保護や自家血清点眼による成長因子補給が有効とされる。
薬物治療において重要なのは、個々の症例の病態に応じた適切な薬剤選択である。しかし、一部の治療薬には意外な注意点が存在する。
ムコスタ点眼の優位性
レバミピド(ムコスタ)点眼は、糸状角膜炎に対する第一選択薬として位置づけられている。単なる角膜保護作用だけでなく、ムチン分泌促進による根本的な涙液層安定化効果を有する。再発率の高い本疾患において、長期継続が必要であることが強調されている。
ジクアス点眼の禁忌的使用
興味深いことに、通常ドライアイ治療に用いられるジクアス点眼(ジクアホソルナトリウム)は、糸状角膜炎においては悪化因子となることが学会で多数報告されている。このため、糸状角膜炎の診断が確定した症例では、ジクアス点眼の使用を避けることが推奨される。
高張食塩水点眼の機序
高張食塩水点眼は、浸透圧勾配により角膜浮腫を軽減し、糸状物の形成を抑制する作用がある。特に朝の症状が強い症例では、起床時の使用が効果的である。
ステロイド点眼の適応
炎症性要素が強い症例では、低力価副腎皮質ステロイド点眼が有効である。ただし、感染性要因の除外と眼圧上昇への注意が必要である。
保存的治療で改善が得られない難治性糸状角膜炎に対しては、外科的アプローチが検討される。
糸状物の機械的除去
点眼麻酔下での糸状物除去は、即座に症状を軽減させる効果的な処置である。縫合鑷子や滅菌綿棒を用いて、糸状物を根部から慎重に除去する。除去後は一時的に角膜上皮欠損が生じるが、通常24-48時間で修復される。重要なのは、除去手技だけでなく原因疾患への対応を同時に行うことである。
治療用コンタクトレンズの適応
治療用ソフトコンタクトレンズは、角膜表面を物理的に保護し、糸状物の形成を防ぐ効果がある。特に以下の症例で有効とされる。
装用期間は通常2-4週間で、その間に原因疾患の治療を並行して行う。
涙点プラグと涙点閉塞術
涙液貯留を目的とした涙点プラグ挿入は、ドライアイ関連糸状角膜炎で特に効果的である。一時的なコラーゲンプラグから開始し、効果が確認されればシリコンプラグや永久的な涙点閉塞術を検討する。
眼瞼手術の適応と成績
従来の治療で改善しない難治性糸状角膜炎において、眼瞼下垂手術や眼瞼形成術は根本的治療となり得る。京都府立医科大学の症例シリーズでは、13例17眼すべてで長期完治が得られており、平均観察期間2年以上で再発を認めていない。手術適応の判断基準として、明らかな眼瞼機能異常の存在と、6ヶ月以上の保存的治療抵抗性が挙げられている。
糸状角膜炎の治療において、患者や医療従事者が見落としがちな予後関連因子が存在する。これらの認識は、適切な治療計画立案と患者指導に不可欠である。
予後不良因子の同定
以下の因子を有する症例では、長期化や治療抵抗性を示すリスクが高い。
季節変動と環境因子
糸状角膜炎の症状には明確な季節変動が存在する。冬季の乾燥した環境や、春季の花粉による眼部刺激は症状を悪化させる。また、エアコンの直風や長時間のVDT作業も増悪因子となる。患者指導では、これらの環境要因への対策を具体的に説明することが重要である。
治療継続の重要性
糸状角膜炎は症状の改善と悪化を繰り返すため、患者が自己判断で治療を中断するリスクが高い。特にムコスタ点眼などの長期継続が必要な薬剤では、症状改善後も予防的継続の意義を十分に説明する必要がある。
心理的サポートの必要性
慢性的な異物感や痛みは、患者の生活の質を著しく低下させる。特に難治性症例では、治療への不安や絶望感を抱く患者も多い。医療従事者は、治療選択肢の多様性や新しいアプローチの可能性について、希望を持てるような情報提供を心がける必要がある。
難治性糸状角膜炎の治療には、従来の点眼治療の枠を超えた包括的アプローチが求められる。眼瞼手術などの外科的治療や、個々の症例に応じた個別化医療の重要性が、近年の臨床研究で明らかになっている。医療従事者は、これらの新しい治療選択肢を理解し、適切なタイミングで専門施設への紹介を検討することが、患者の予後改善につながると考えられる。
日本眼科学会のドライアイ診療ガイドラインに糸状角膜炎の詳細な治療指針が記載
https://www.nichigan.or.jp/Portals/0/resources/member/guideline/dryeye_guideline.pdf
京都府立医科大学の難治性糸状角膜炎に対する眼瞼手術の詳細な治療成績
https://www.nichigan.or.jp/Portals/0/JJOS_PDF/115_693.pdf