腸チフスとパラチフスは、それぞれサルモネラ属のチフス菌(Salmonella Typhi)とパラチフス菌(Salmonella Paratyphi)による全身性感染症です。世界的には年間1100万~2100万人が罹患していると推計されており、特に衛生環境が整っていない地域での発生率が高いとされています。
日本国内では年間30~60例の患者が報告されており、そのほとんどが海外での感染例です。特に感染リスクが高いのはインド、バングラデシュ、パキスタンなどの南アジア地域であり、渡航者は注意が必要です。
感染経路は主に経口感染で、感染者の便や尿に汚染された水や食物を摂取することで感染します。特に注意すべき点として、ごく少量の菌でも感染が成立することがあります。
【感染リスクの高い食品・飲料】
• 生水や氷
• 生肉、十分に加熱されていない肉類
• 洗浄に汚染された水を使用した生野菜やカットフルーツ
• 路上販売の食品
これらの感染症は感染症法における3類感染症に分類され、診断した医師には直ちに届出が義務付けられています。学校保健安全法では第三種感染症に分類され、病状により学校医その他の医師が感染のおそれがないと認めるまで出席停止となります。
腸チフスとパラチフスの症状は非常に類似していますが、一般的にパラチフスの方が腸チフスよりも症状が軽度で、潜伏期間もやや短い傾向があります。
潜伏期間は腸チフスで7~14日(報告によっては3~60日)、パラチフスではそれよりもやや短い期間とされています。両疾患とも典型的な経過は4つの病期に分けられます。
第1病期:
体温が段階的に上昇し、39~40℃の高熱に達します。この時期に腸チフスの3主徴とされる症状が出現します。
ただし、これらの3主徴がすべて出現する率は低く、特にバラ疹は輸入事例の4~6%程度にしか見られないとされています。
第2病期:
40℃台の稽留熱(一定の高い体温が持続する状態)となり、チフス性顔貌と呼ばれる無欲状の顔つきが見られます。この時期には下痢または便秘を呈します。重症例では意識障害や難聴などが現れることもあります。
第3病期:
弛張熱(体温が上下に変動する状態)を経て、徐々に解熱していきます。この時期に合併症として腸出血やそれに続く腸穿孔を起こすこともありますが、現代の抗菌薬治療の普及により稀になっています。
第4病期:
解熱して回復に向かいます。
血液検査所見としては、成人では核の左方移動を伴う白血球減少、小児では白血球増加が見られることがあります。肝機能検査ではASTやALTが300 IU/L程度まで軽度上昇し、LDHも中程度上昇して1000 IU/L以上となることもあります。
診断は主に血液培養によって行われます。診断精度を高めるため、抗菌薬投与前の血液培養採取が重要です。また、専門医療機関では骨髄検査や遺伝子検査などのより精度の高い特殊検査が実施されることもあります。
腸チフスとパラチフスの治療は、適切な抗菌薬の投与が基本となります。治療は通常、次のような流れで進行します。
治療期間は通常2~4週間程度を要しますが、患者の状態や合併症の有無によって変動することがあります。一般的な回復の過程は以下のようになります。
しかし、治療上の大きな課題として薬剤耐性菌の問題があります。以前はニューキノロン系抗菌薬(シプロフロキサシンなど)が第一選択薬として使用されていましたが、近年ではその耐性菌が急増しています。
特に南アジア由来のチフス菌・パラチフスA菌ではニューキノロン非感受性菌の割合が95%を超えており、こうした地域からの帰国者に対しては第三世代セファロスポリン系抗菌薬やアジスロマイシンが選択されます。
抗菌薬の種類 | 主な使用状況 | 耐性の状況 |
---|---|---|
ニューキノロン系 | 以前の第一選択薬 | チフス菌で約60%、パラチフス菌で約70%が耐性 |
第三世代セファロスポリン系 | 現在の主要選択肢 | 流行地では耐性菌も出現 |
アジスロマイシン | 代替治療 | 比較的感受性が保たれている |
さらに近年では、第三世代セファロスポリン系抗菌薬にも耐性を示す株が流行地で分離されており、治療の選択肢が限られてきています。このため、抗菌薬開始前の血液培養による病原菌の分離と、薬剤感受性試験の実施が極めて重要です。
腸チフス・パラチフスの症状が重度であったり、合併症のリスクが高い場合には入院治療が推奨されます。入院が必要となる主な状況は以下の通りです。
適切な治療を受けることで死亡率は1%以下に抑えられますが、5~10%の症例で再発がみられることにも注意が必要です。
腸チフス・パラチフスの予防において、最も基本的かつ重要な対策は衛生管理です。特に流行地域への渡航時には以下の点に注意する必要があります。
食べ物・水に関する注意点
これらの衛生対策を徹底することが理想ですが、現実的には常に完全な予防を行うことは容易ではありません。そこで補助的な予防手段としてワクチン接種が挙げられます。
腸チフスのワクチンには、注射タイプの不活化ワクチン(Vi多糖体ワクチン)と経口生ワクチン(Ty21a)の2種類があります。日本国内では未承認ですが、一部の医療機関では海外から輸入したワクチンの接種が行われています。
ワクチンの効果は完全ではなく、約50~80%の予防効果があるとされています。特に南アジア地域への長期滞在予定者には、渡航前の予防接種が推奨されることがあります。ただし、注意すべき点として、腸チフスのワクチンにはパラチフスに対する予防効果はありません。
感染症の予防と共に、早期発見・早期治療も重要です。流行地域から帰国後に発熱などの症状が現れた場合には、渡航歴を医療機関に必ず伝え、適切な検査を受けることが大切です。また、検査の精度を保つため、抗菌薬の自己判断での服用は避けるべきです。
腸チフス/パラチフスの対策において、一般的にはあまり焦点が当てられていないが極めて重要な側面が「無症状病原体保有者(キャリア)」の存在です。治療後も約1~4%の患者が菌の排出を続けるキャリアとなり、公衆衛生上の懸念材料となっています。
キャリアの多くは胆嚢内に菌を保有しており、特に胆石保有者や慢性胆嚢炎患者ではキャリア化のリスクが高まります。胆嚢内の菌は間欠的に腸管内に排出されるため、無自覚のうちに周囲への感染源となる可能性があります。
キャリア化のリスク因子
歴史的に有名な事例として、20世紀初頭のニューヨークで「腸チフスのメアリー」と呼ばれた料理人のメアリー・マローンが知られています。彼女は無症状キャリアでありながら料理人として働き続け、少なくとも53人に腸チフスを感染させたとされています。
キャリア状態の診断には、便培養検査を複数回実施する必要があります。キャリアと診断された場合の治療選択肢としては、抗菌薬の長期投与か胆嚢摘出術があります。特に胆石を伴う場合は、胆嚢摘出術が最も効果的な治療法となることが多いです。
キャリア対策の重要性は、特に食品取扱者や医療従事者、保育施設従事者など、感染拡大リスクの高い職業に就いている人々において顕著です。日本の感染症法では、腸チフス・パラチフスのキャリアに対して就業制限が設けられており、検便の陰性確認まで食品取扱業務などへの就業が制限されます。
公衆衛生上の観点から、腸チフス・パラチフス患者の治療後も一定期間のフォローアップと便培養検査の実施が推奨されており、無症状キャリアの早期発見と適切な管理が感染拡大防止の鍵となります。
医療機関では、腸チフス・パラチフス患者の治療完了後も、以下のフォローアップが重要です。
これらの長期的な管理体制を整えることで、腸チフス・パラチフスの再発や二次感染のリスクを最小限に抑えることが可能となります。