ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)は、胃の粘膜に感染する細菌の一種です。名前の由来は「ヘリコ(らせん状)」と「バクター(細菌)」、そして「ピロリ(幽門部)」を意味するラテン語に由来しており、胃の幽門部から最初に発見されました。この細菌の最大の特徴は酸素存在下では発育せず、胃の強酸性環境で生存できることです。
ピロリ菌は4~7本の鞭毛(べんもう)を持ち、この鞭毛を高速回転させてドリルのように胃内を移動します。胃の強酸性環境で生息できるのは、ウレアーゼという酵素を持っているからです。この酵素により胃内の尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解し、アンモニアで胃酸を中和することで、自身の周囲の酸性度を緩和しているのです。
感染経路については、主に幼少期に経口感染すると考えられています。不衛生な水や食物を介した感染、または同じ家族内での感染(口移しでの食事やキスなど)が原因とされています。
日本国内のピロリ菌感染者数は約3500万人と推定されており、特に50歳以上の年齢層で感染率が高いことが報告されています。これは、戦後の衛生環境が現在よりも整っていなかった時代に幼少期を過ごした世代に感染率が高い傾向があるためです。実際、若年層の感染率は衛生環境の向上により年々低下傾向にあります。
ピロリ菌の検査方法には、侵襲的検査と非侵襲的検査があります。どの検査を選択するかは、患者の状態や検査の目的によって異なります。
【侵襲的検査】
【非侵襲的検査】
これらの検査の精度比較では、尿素呼気試験と便中抗原検査が感度・特異度ともに90%以上と高い精度を示しています。ただし、プロトンポンプ阻害薬(PPI)やウレアーゼ阻害作用を持つ薬剤の服用中は偽陰性となる可能性があるため、検査前2週間は中止する必要があります。
特に除菌判定では、尿素呼気試験とモノクローナル抗体を用いた便中ピロリ菌抗原測定が推奨されています。血清抗体検査は除菌後も長期間陽性が続くことがあるため、除菌判定には適していません。
検査選択のポイントとしては、初回スクリーニングでは非侵襲的な方法が患者負担が少なく適している一方、胃炎や潰瘍などの症状がある場合は内視鏡検査も同時に行うことで、粘膜の状態を確認しながらピロリ菌感染の有無を調べることが望ましいとされています。
ピロリ菌除菌治療は、胃炎や胃潰瘍、胃がんリスクの低減に有効であることが確立されています。現在の標準的な除菌療法とその最新プロトコルについて解説します。
【保険適用となる除菌治療の対象疾患】
【標準的な除菌レジメン】
近年の研究では、従来のPPIに代わりボノプラザンを用いた除菌療法の有効性が注目されています。特に、クラリスロマイシン耐性菌が増加している状況において、ボノプラザンとアモキシシリンの2剤併用療法が効果的であるという報告があります。
【ボノプラザンを用いた2剤併用療法のメリット】
除菌治療による副作用としては、下痢、軟便、味覚異常、舌炎、口内炎などが15~66%と報告されており、2~5%には出血性腸炎、発疹、喉頭浮腫などの強い副作用が発生することがあります。特にペニシリンアレルギーに注意が必要です。
また、メトロニダゾールは飲酒によりジスルフィラム-アルコール反応が起き、腹痛、嘔吐、ほてりなどの症状が現れることがあります。ワーファリンなどの抗凝固薬との相互作用による出血リスクにも注意が必要です。
薬剤耐性菌の増加に伴い、クラリスロマイシンに対する薬剤感受性試験の重要性が高まってきています。個々の患者に最適な除菌レジメンを選択するためにも、ピロリ菌の培養同定と感受性試験を実施することが今後さらに重要となるでしょう。
ピロリ菌感染と胃がんの関連性は、多くの疫学研究により強く示されています。日本における胃がんは、がん罹患者数・死亡数ともに第3位と非常に身近な疾患です。
ピロリ菌感染が胃がんリスクを高める明確なエビデンスとして、国立がん研究センターの疫学研究が挙げられます。この研究によると、ピロリ菌感染者は非感染者と比較して胃がんリスクが5.1倍に上昇します。さらに、より正確な感染把握を行うと、そのリスクは10倍にまで高まることが報告されています。
国内の別の研究では、胃がん症例の約99%がピロリ菌に感染していたという報告もあり、胃がんのほとんどはピロリ菌が原因であると考えられています。
ピロリ菌が胃がんを引き起こす機序としては、以下のプロセスが関与しています。
特に注目すべきは、ピロリ菌のサブタイプであるCagA陽性株の存在です。CagA陽性のピロリ菌感染では、胃がんリスクがさらに高まることが示されています。
国立がん研究センターによるピロリ菌と胃がんリスクに関する研究
また、ピロリ菌除菌による胃がん予防効果も多くの研究で確認されています。系統的レビューとメタアナリシスでは、ピロリ菌除菌により胃がん罹患リスクが58%(相対リスク0.42)低下することが示されています。さらに、健常人を対象とした研究では、除菌により胃がんリスクが66%(相対リスク0.34)低下し、内視鏡的切除後の早期胃がん患者でも異時性胃がん罹患リスクが50%低下することが報告されています。
これらのエビデンスを総合的に評価した結果、日本人においてピロリ菌除菌による胃がん罹患リスク低下についての科学的根拠は「確実」とされています。
ピロリ菌除菌後の胃粘膜は徐々に炎症が改善し再生が進みますが、すでに進行した萎縮性変化は必ずしも完全に回復するわけではありません。除菌後の経過と胃がんリスクの変化、そして最近注目されているバイオマーカーについて解説します。
【除菌後の胃粘膜変化】
除菌治療により胃がんリスクは大幅に低減しますが、ゼロにはなりません。特に、すでに高度の萎縮性胃炎が進行している場合や腸上皮化生が広範に認められる場合は、除菌後も一定の胃がんリスクが残存するため、定期的な内視鏡検査による経過観察が必要です。
最近の研究では、除菌後の胃がんリスク評価に「胃粘膜組織におけるDNAメチル化レベル」が有用であることが報告されています。国立がん研究センターと星薬科大学の2025年4月の研究によると、除菌後の健康人において、胃粘膜組織のDNAメチル化レベルを測定することで、初発胃がんのリスク予測が可能となることが明らかにされました。
ピロリ菌除菌後の胃がんリスク予測に関する最新研究
この方法により「胃がん超ハイリスク集団」を同定できることから、除菌後のフォローアップ戦略の最適化が期待されます。具体的には、DNAメチル化レベルが高い患者には短期間での内視鏡検査を、低い患者には検査間隔を延長するなど、個別化された経過観察プログラムの構築が可能になります。
また、除菌後も胃酸分泌能は必ずしも正常化しないため、胸やけなどの症状が続く場合があります。さらに、除菌治療後に胃食道逆流症(GERD)が顕在化するケースもあり、除菌前に比べて胃酸分泌が増加することで症状が出現することがあります。
除菌後の経過観察のポイントとしては以下が挙げられます。
一方で興味深い研究として、大阪大学の研究グループはピロリ菌が胃炎を引き起こすメカニズムを解明し、抗生物質による除菌に代わる可能性のある治療法の開発につなげる研究を行っています。この研究では、ピロリ菌が宿主のコレステロールを取り込み、糖と脂質を付加して胃炎を誘導する化合物を作り出すことが明らかになりました。
大阪大学によるピロリ菌の胃炎発症メカニズムに関する研究
このような分子メカニズムの解明により、今後はピロリ菌の糖脂質生成に必要な酵素を阻害する新たな治療法の開発が期待されます。これにより、抗生物質による除菌とは異なるアプローチで胃炎・胃がんの予防が可能になるかもしれません。
除菌治療後の患者指導においては、定期検査の重要性、生活習慣の改善(禁煙、適切な食生活)、症状出現時の早期受診などを強調するとともに、最新の研究成果に基づくリスク評価を取り入れることで、より効果的な胃がん予防が可能となるでしょう。