網膜動脈閉塞症が「治らない」とされる主な理由は、網膜組織の不可逆的な虚血性変化にあります。網膜細胞が動脈閉塞による虚血状態に耐えられる時間は極めて短く、約60分から90分程度が限界とされています。
この短い時間枠が、治療効果を著しく制限する要因となっています。血流が途絶えて90分が経過すると、網膜の組織に永続的な損傷が残り、視力障害も生涯残るのが一般的です。
網膜動脈閉塞症は以下の2つのタイプに分類されます。
特に網膜中心動脈閉塞症では、閉塞が網膜中心動脈の本幹に起こった場合、視力障害はしばしば高度で、治療をしても治らないことが多いとされています。
網膜動脈閉塞症の主要な原因は動脈硬化と塞栓症です。発症には以下のような複数の要因が関与しています。
主要な原因
リスク因子
興味深いことに、若年者では膠原病などの全身性血管炎が原因となることもあります。また、巨細胞性動脈炎による網膜動脈閉塞症の場合、迅速な診断と治療により、失われた視力をある程度回復し、他眼の損傷を防ぐことができるという報告もあります。
年間発症率は10万人あたり0.7-1.87人と報告されており、比較的まれな疾患ですが、その重篤性から眼科救急疾患の一つとして位置づけられています。
現在の網膜動脈閉塞症に対する標準的治療法は、主に急性期の血流再開を目的としたものですが、その効果は限定的です。
急性期治療法
治療の限界と課題
これらの治療法の最大の問題は、発症から治療開始までの時間的制約です。網膜組織が不可逆的な損傷を受ける前に治療を開始する必要があり、現実的には多くの症例で治療効果が得られません。
欧州で行われたランダム化試験では、発症早期の網膜中心動脈閉塞症に対する局所動脈内血栓溶解療法と保存的治療を比較しましたが、保存的治療を上回る有効性は示されませんでした。
近年、網膜動脈閉塞症に対する画期的な治療薬の開発が進んでおり、「治らない」という従来の概念に変化をもたらす可能性があります。
京都大学開発のKUS121
京都大学で開発されたVCPという蛋白に対するATPase阻害剤(KUS121)は、神経保護作用を有する新規治療薬として注目されています。
この治験では、KUS121の投与が安全かつ視力改善に有効であることが示唆され、次相試験(第3相試験)に向けた準備が進められています。
東北大学のカルパイン阻害薬
東北大学では、カルパイン阻害薬の医師主導第Ⅱa相試験が実施されました。カルパインは網膜神経節細胞死を誘導するシステインプロテアーゼであり、その阻害により神経保護効果が期待されています。
治療効果のメカニズム
これらの神経保護薬は、従来の血流再開を目指す治療とは異なるアプローチを取っています。
網膜動脈閉塞症の治療において見落とされがちなのが、急性期治療後の長期管理と合併症の予防です。この視点は、単純に「治らない」と割り切るのではなく、患者のQOL向上を目指す重要なアプローチです。
新生血管形成の監視と対策
約20%の患者で、閉塞の数週間後から数カ月後に網膜新生血管や虹彩新生血管が発生し、続発性緑内障を引き起こします。
全身疾患との関連性管理
網膜動脈閉塞症があると、脳血管疾患のリスクが増大することが知られています。特に網膜中心動脈閉塞症の数週間後に脳卒中のリスクが上昇するため、以下の管理が重要です。
リハビリテーションと視覚補助
視力回復が困難な症例においても、残存視機能を最大限活用するアプローチが重要です。
患者教育と自己管理
長期的な予後改善のためには、患者自身の理解と自己管理能力の向上が不可欠です。
この包括的なアプローチにより、網膜動脈閉塞症患者の長期的なQOLの向上と、合併症の予防が可能となります。単に「治らない」疾患として諦めるのではなく、積極的な長期管理によって患者の生活の質を維持・改善することができるのです。
現在進行中の新規治療薬の開発と併せて、このような多角的なアプローチが網膜動脈閉塞症の予後改善に大きく貢献することが期待されます。医療従事者には、急性期治療だけでなく、長期的な視点での患者ケアが求められています。
MSDマニュアル:網膜動脈閉塞症の詳細な病態解説と治療指針
京都大学:KUS121を用いた医師主導治験の詳細と最新結果
日本眼循環学会:カルパイン阻害薬による神経保護治療の開発状況