香蘇散エキスは、中国の宋時代に編纂された「和剤局方」に収載されている古典的な漢方処方です。本剤の主要な薬理作用は「理気作用」と呼ばれる気の巡りを整える効果にあります。
構成生薬の中でも特に重要なのが香附子と蘇葉(紫蘇葉)です。香附子は理気作用、鎮痛作用、月経調整作用を有し、蘇葉は理気作用に加えて発汗作用、鎮咳作用を示します。現代薬理学的には、蘇葉に含まれるロスマリン酸が海馬における中枢神経新生を促進し、抗うつ効果を発揮することが明らかになっています。
陳皮は理気作用と健胃作用を併せ持ち、甘草は鎮痛作用、抗痙攣作用、鎮咳作用を、生姜は発汗作用、健胃作用、制吐作用を担います。これらの生薬が相互に作用することで、胃腸機能の改善と精神症状の緩和を同時に実現します。
臨床的には、平素より胃腸虚弱で抑うつ傾向のある患者の感冒初期に特に有効とされています。食欲不振や軽度の悪寒、発熱などを伴う場合や、葛根湯や麻黄湯などの麻黄剤で食欲不振を起こす患者に適応されます。
香蘇散エキスの最も重要な副作用は、甘草に含まれるグリチルリチン酸による偽アルドステロン症です。この病態は、体内のカリウム濃度が低下し、血圧上昇、むくみ、脱力感、筋肉痛などの症状が現れる重篤な状態です。
偽アルドステロン症の発症機序は、グリチルリチン酸が尿細管でのカリウム排泄を促進することにあります。血清カリウム値の低下により、さらにミオパチーを続発する可能性もあり、脱力感、四肢痙攣、四肢麻痺等の症状が認められた場合は直ちに投与を中止し、カリウム剤の投与等の適切な処置が必要です。
特に注意が必要なのは、他の甘草含有製剤との併用です。芍薬甘草湯、補中益気湯、抑肝散等の漢方薬や、グリチルリチン酸及びその塩類を含有する製剤との併用により、偽アルドステロン症の発症リスクが著明に増加します。
長期間にわたって複数の漢方薬を服用する場合や、高血圧、心臓病、腎臓病などの基礎疾患を有する患者では、血清カリウム値や血圧値の定期的な監視が不可欠です。
香蘇散エキスの適応となる患者像は、漢方医学的には「陰証・虚証・寒証・気滞」の病態を呈する症例です。具体的には、平素から胃腸が弱く、神経質で気分が優れない患者が、頭痛、発熱、悪寒などの風邪症状を呈した場合に第一選択となります。
西洋医学的な適応症としては、以下のような病態が挙げられます。
処方判断において重要なのは、患者の体質(証)の見極めです。高熱があり大量の汗をかいている風邪患者や、激しい咳や大量の痰、喉の強い痛みが主症状の場合は、香蘇散よりも杏蘇散や麦門冬湯、清肺湯などの他の漢方薬が適しています。
また、極端に体力がなく衰弱している患者や、胃腸が極端に弱く下痢をしやすい患者では、構成生薬によって症状が悪化する可能性があるため注意が必要です。
近年、香蘇散エキスの新たな臨床応用として、COVID-19後の遷延性嗅覚障害に対する効果が注目されています。気鬱がベースにあるCOVID-19後嗅覚障害患者において、香蘇散が有効であった症例が報告されており、その機序として以下の点が考えられています。
まず、蘇葉に含まれるロスマリン酸による抗うつ効果により、気鬱の改善を通じて嗅覚器の機能回復が促進される可能性があります。さらに興味深いのは、香附子、蘇葉、陳皮に含まれる精油成分による嗅覚刺激効果です。特に蘇葉は精油成分を多く含有しており、気化した精油成分が嗅覚神経系を刺激することで、嗅覚刺激療法と同様の効果を発揮する可能性が示唆されています。
実際の処方では、エキス剤を白湯に溶かし、その香りを嗅いだ後に内服することで、嗅覚改善により寄与する可能性があるとされています。
また、香蘇散は血の道症(月経、妊娠、出産、産後、更年期などの女性ホルモンの変動に伴う精神神経症状)に対しても効果が期待されており、女性特有の心身症状に対する包括的なアプローチとして注目されています。
香蘇散エキスの標準的な用法用量は、成人で1日7.5gを2〜3回に分割し、食前または食間に経口投与することです。年齢、体重、症状により適宜増減が可能ですが、甘草による副作用リスクを考慮し、必要最小限の用量での処方が推奨されます。
服薬指導において重要なポイントは以下の通りです。
服用タイミング:基本的には食前または食間の服用が推奨されますが、胃腸への負担を考慮して食後服用も可能です。患者の胃腸の状態に応じて柔軟に対応することが重要です。
併用薬の確認:他の漢方製剤や甘草含有製剤、グリチルリチン酸製剤との併用がないか必ず確認し、含有生薬の重複に注意する必要があります。
症状観察の指導:手足のしびれやこわばり、むくみ、脱力感、筋肉痛などの偽アルドステロン症の初期症状について患者に説明し、これらの症状が現れた場合は速やかに受診するよう指導します。
効果判定期間:一般的に漢方薬の効果は2〜4週間で判定されますが、風邪の初期症状に対しては数日以内に効果が期待されます。経過を十分に観察し、症状・所見の改善が認められない場合は継続投与を避けることが重要です。
妊娠中または授乳中の患者に対しては、治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与し、授乳婦では治療上の有益性及び母乳栄養の有益性を考慮して授乳の継続または中止を検討する必要があります。
日本漢方生薬製剤協会による漢方薬の適正使用ガイドライン
https://www.nikkankyo.org/
厚生労働省による医薬品の副作用情報
https://www.pmda.go.jp/