アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬(Angiotensin Receptor-Neprilysin Inhibitor: ARNI)は、心不全治療において革新的なアプローチを提供する薬剤です。ARNIは、アンジオテンシンII受容体拮抗薬(ARB)とネプリライシン阻害薬(NEP阻害薬)の作用を併せ持つ1分子化合物として設計されています。
日本で承認されているARNIであるエンレスト(一般名:サクビトリルバルサルタンナトリウム水和物)は、ネプリライシン阻害作用を持つサクビトリルと、アンジオテンシンII タイプ1受容体拮抗作用を持つバルサルタンの複合体です。この独自の組み合わせにより、従来の心不全治療薬にはない作用機序を実現しています。
ARNIの主な作用機序は以下の2つの経路に作用することです。
従来のACE阻害薬やARBが主にRAAS阻害に焦点を当てていたのに対し、ARNIはRAAS阻害に加えてナトリウム利尿ペプチド系も増強するという点で大きく異なります。この二重の作用機序により、心不全の病態における神経体液性因子のバランス破綻を正すことが期待されています。
また、ARNIの前身となる薬剤としてオマパトリラート(ACE阻害薬とNEP阻害薬の合剤)が開発されていましたが、重篤な血管浮腫のリスクがあったため実用化には至りませんでした。エンレストはこの問題を克服するために、ACE阻害薬ではなくARBと組み合わせることで安全性を向上させた薬剤と言えます。
アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬(ARNI)の心不全治療における効果は、大規模臨床試験PARADIGM-HF(Prospective comparison of ARNI with ACEi to Determine Impact on Global Mortality and morbidity in Heart Failure)で確立されました。この試験は、駆出率が低下した心不全(HFrEF)患者8,442名を対象に、エンレスト(サクビトリルバルサルタン)とACE阻害薬エナラプリルの効果を比較しました。
PARADIGM-HF試験の主な結果は以下の通りです。
この結果を受けて、日本の「急性・慢性心不全診療ガイドライン」や米国の心不全診療ガイドラインでは、左室駆出率の低下した心不全(HFrEF)患者に対するARNIの使用がクラスI推奨(エビデンスレベルA)とされています。特に、標準治療(ACE阻害薬またはARB)を受けている症候性のHFrEF患者では、ACE阻害薬/ARBからARNIへの切り替えが推奨されています。
また、PIONEER-HF試験では、急性非代償性心不全で入院したHFrEF患者に対するエンレストの早期導入の安全性と有効性が示されました。入院中からエンレストを開始することで、NT-proBNP(心不全の重症度を示すバイオマーカー)の有意な低下が確認されています。
ARNIの心不全治療における特筆すべき点として、以下が挙げられます。
こうした優れた臨床効果により、ARNIは心不全治療のパラダイムシフトをもたらす薬剤として注目されています。2020年6月に日本でも慢性心不全の治療薬として承認され、標準的な心不全治療を受けている患者に対する新たな治療選択肢となっています。
日本内科学会雑誌での心腎連関とARNIに関する詳細な解説はこちら
アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬(ARNI)は、心不全治療だけでなく高血圧症治療においても有効性が認められています。日本では2021年9月に「エンレスト錠」の高血圧症に対する効能追加が承認されました。これは国内初のARNIの高血圧症への適応拡大であり、高血圧治療の新たな選択肢として注目されています。
エンレストの高血圧症に対する有効性は、日本人の軽症または中等症の本態性高血圧症患者を対象とした国内第III相臨床試験(A1306試験)で実証されました。この試験では、エンレスト200mgを1日1回投与した際、既存のARBであるオルメサルタンと比較して有意な降圧効果が示されました。
ARNIの高血圧症治療における作用機序は以下の通りです。
これらの複合的な作用により、ARNIは従来のRAAS阻害薬(ACE阻害薬やARB)と比較して、より効果的な血圧コントロールを実現する可能性があります。特に、血圧上昇にナトリウム利尿ペプチド系の低下が関与している患者では、ARNIによる治療効果が期待できます。
高血圧症治療におけるARNIの位置づけについては、以下のような点が考慮されています。
ただし、ARNIの高血圧症治療における長期的な心血管イベント抑制効果については、まだ大規模な臨床試験によるエビデンスが蓄積されている段階です。今後の研究結果が、高血圧診療ガイドラインにおけるARNIの位置づけをさらに明確にしていくと考えられます。
アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬(ARNI)を安全かつ効果的に使用するためには、いくつかの重要な注意点があります。医療従事者はこれらの点を十分に理解した上で、患者への処方を検討する必要があります。
1. 禁忌および慎重投与
2. 血圧低下リスクへの対応
ARNIは強力な降圧作用を持つため、特に治療開始時や用量調整時には血圧低下に注意が必要です。
血圧低下リスクが高い患者。
対応策。
3. 腎機能障害と高カリウム血症
ARNIは他のRAAS阻害薬と同様に、腎機能に影響を与える可能性があります。
4. 適切な患者選択
ARNIの適応となる患者の適切な選択が重要です。
心不全患者。
高血圧症患者。
5. 副作用モニタリング
主な副作用として注意すべき症状。
アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬(ARNI)は、心不全治療における他の標準治療薬との適切な併用によって、その効果を最大化することができます。近年の心不全治療は、複数の作用機序を持つ薬剤を組み合わせた「多剤併用療法」が標準となってきており、ARNIもその重要な構成要素となっています。
ARNIとベータ遮断薬の併用
ベータ遮断薬は心不全治療の基本薬であり、ARNIとの併用は推奨されています。
ARNIとSGLT2阻害薬の併用
SGLT2阻害薬(フォシーガ、ジャディアンスなど)は、近年心不全治療薬として注目されている薬剤です。
ARNIとMR拮抗薬の併用
ミネラルコルチコイド受容体拮抗薬(MR拮抗薬:スピロノラクトン、エプレレノンなど)もARNIと併用可能です。
ARNIと利尿薬の併用
ループ利尿薬(フロセミド、トラセミドなど)は、うっ血症状の管理のために併用されることが多いです。
個別化治療アプローチの重要性
心不全治療薬の併用は、患者の状態や合併症に応じて個別化する必要があります。
これらの要素を総合的に評価し、最適な併用療法を選択することが重要です。特に、4種類の予後改善薬(ARNI/ACE阻害薬/ARB、ベータ遮断薬、MR拮抗薬、SGLT2阻害薬)をいかに安全に併用するかが、最新の心不全治療における課題となっています。
近年提唱されている「Quadruple Therapy(四重治療)」は、これら4種類の薬剤を可能な限り早期に導入・増量することで、心不全患者の予後をさらに改善できる可能性があります。ARNIはこの四重治療の重要な構成要素であり、他の心不全治療薬との最適な併用方法についての研究が今後も進んでいくでしょう。