日本国内で多発性硬化症(MS)を担当する医師なら、オクレリズマブはとっくに使えると思っていませんか?世界100カ国以上で承認済みなのに、日本の患者さんは今もこの薬を正規ルートで受け取れません。
オクレリズマブ(商品名:Ocrevus®)は、ロシュ社(日本ではロシュグループの中外製薬が関係)が開発したヒト化抗CD20モノクローナル抗体製剤です。成熟Bリンパ球の細胞表面に発現するCD20抗原に高い親和性で結合し、抗体依存性細胞傷害(ADCC)、補体依存性細胞傷害(CDC)、アポトーシスという複数の経路を介してCD20陽性B細胞を選択的に排除します。
多発性硬化症(MS)は長らくT細胞主導の自己免疫疾患として理解されてきました。しかし近年の研究により、B細胞が炎症の増幅・神経損傷の維持において中心的な役割を担うことが明確になってきています。抗体産生だけでなく、自己反応性T細胞への抗原提示や炎症性サイトカインの産生を通じて、B細胞はMS病態の核心に関わっているのです。
オクレリズマブはこのB細胞を標的にした薬剤です。投与後14日以内にCD20陽性B細胞が検出不能なレベルまで低下し、その状態は患者の96%で治療期間中維持されます。重要なのは、B細胞の前駆細胞(CD20非発現)や形質細胞には作用しないため、既存の免疫記憶が一定程度温存される点です。
終末消失半減期は約26日。体内での自然な分解過程で除去されるため、腎機能・肝機能による用量調整は原則不要です。投与は6カ月に1回という設計で、患者の通院負担を大幅に軽減できる点も注目されています。6カ月に1回なら、月1回通院が必要な薬剤と比べて年間の来院回数が大幅に変わります。
また、治療中止後にB細胞が正常レベルに戻るまでの中央値は72週間(範囲27〜175週間)と比較的長いため、休薬後の免疫回復に時間がかかることも医療者として把握しておくべき重要な知識です。
オクレリズマブの有効性を裏付ける核心データは、3つの大規模第III相試験から得られています。
再発型MSに対するOPERA試験(IおよびII) では、18〜55歳の再発型MS患者1,656例を対象に、オクレリズマブ600mg静脈投与(24週ごと)とインターフェロンβ-1a 44μg皮下注(週3回)を96週間比較しました。主要エンドポイントである年間再発率は、OPERA Iで0.16 vs 0.29(46%低下、p<0.001)、OPERA IIでも0.16 vs 0.29(47%低下、p<0.001)と、いずれも統計的に極めて有意な差を示しました。
数字を具体的にイメージするなら、年間再発率0.29というのは「約3.4年に1回再発する頻度」ですが、0.16まで下がると「約6.3年に1回」に相当します。患者さんの生活の質に与える影響は非常に大きいですね。
さらに、12週確認済みの障害進行リスクは40%低減(9.1% vs 13.6%)、MRIのガドリニウム増強病変は94〜95%減少という印象的な数値も示されました。
一次性進行型MSに対するORATORIO試験 では、732例のPPMS患者を対象に少なくとも120週間追跡しました。12週確認済みの障害進行リスクがプラセボ比24%低下(ハザード比0.76)。これはガドリニウム増強病変を有する患者では35%低減、45歳以下の患者では36%低減と、より顕著な効果を示しています。25フィート歩行時間の悪化も29%抑制されました。
この結果が持つ意義は大きいです。PPMSへの適応を持つ薬剤としては世界初のFDA承認薬という事実がそれを物語っています。日本でPPMSの治療を担当する神経内科医にとって、国内承認薬の選択肢がゼロである現状は深刻な問題です。
長期延長試験では、7.5年間の追跡後も年間再発率は0.03という非常に低い値で維持され、継続治療群ではMRI上の疾患活動性がほぼ完全に抑制されています。結論は、長期にわたる有効性の持続が確認されているということです。
参考リンク(OPERA試験の結果概要・CareNet)。
多発性硬化症、抗CD20抗体ocrelizumabで再発率低下 – CareNet.com
オクレリズマブは2017年3月、米国FDAにより再発型MSおよびPPMSへの適応で承認されました。EU、英国、カナダ、オーストラリアをはじめ2026年時点で100カ国以上で使用されています。世界での処方患者数は30万人を超えており、グローバルには標準的治療薬の地位を確立しています。
一方、日本での状況は異なります。2026年3月時点でオクレリズマブは日本国内で未承認です。日本神経学会の学術誌においても「オクレリズマブ(本邦未承認)」と明記されており、正規の処方ルートは存在しません。ロシュグループの中外製薬が関連しているにもかかわらず、日本での承認申請が進んでいない状況が続いています。
なぜこうした状況が生じているのか、日本のドラッグラグ(承認遅延)問題の一例として理解する必要があります。日本でのMS治療薬の開発・承認には複数の要因が絡みます。まず、日本のMS患者数は約1万9,000人(視神経脊髄炎を含む)と、欧米に比べて絶対数が少ないため、国内での臨床試験実施に費用対効果の観点から製薬企業が慎重になる場合があります。また、日本ではMS患者の病型分布が欧米と異なり、PPMS患者の割合が低いこともネックとなり得ます。
この未承認の空白を埋めるかたちで実臨床では何が起きているのか。日本の専門医の中には、同じ抗CD20抗体であるリツキシマブ(国内承認済みだが多発性硬化症への適応なし)をオフラベルで使用するケースがあります。リツキシマブはキメラ抗体であり、ヒト化されているオクレリズマブとは構造が異なりますが、B細胞除去という作用機序は共通しています。ROC-MS共同研究(2025年)ではリツキシマブとオクレリズマブの非劣性検証が進行中であり、今後の知見が待たれます。
2025年のミクスOnline報道によると、オクレリズマブ(Ocrevus)の2024年売上高は約76億ドルとロシュ社で1位の製品となっていますが、2029年の特許切れが見込まれており、日本での承認が進まないまま特許切れを迎える可能性すら指摘されています。厚生労働省の費用対効果評価制度においてもオクレリズマブが評価対象の候補として言及されており、制度上の議論は進んでいますが、承認申請の具体的なスケジュールは2026年3月時点で公開情報として確認できていません。
日本でMS診療に当たる医療従事者は、この「世界標準薬が使えない」という現実を患者に説明する立場に置かれています。厳しいところですね。
参考リンク(日本神経学会ガイドライン2023で言及されている診療の現状)。
多発性硬化症・視神経脊髄炎スペクトラム障害診療ガイドライン2023 – 日本神経学会
有効性が高い薬剤ほど、副作用への対応も重要です。オクレリズマブの安全性プロファイルは概ね管理可能ですが、医療従事者が患者に適切な説明と管理を行うためには、具体的な数値とリスクの全体像を把握しておく必要があります。
最も頻度が高い有害事象はインフュージョンリアクション(輸注関連反応)です。初回投与時には34〜40%の患者に発生しますが、その後の投与では20〜25%に減少し、ほとんどは軽度〜中等度です。前投薬(メチルプレドニゾロン、抗ヒスタミン薬)と投与速度の管理で対処可能なケースがほとんどです。
次いで注意が必要なのが感染症です。重篤な感染症はオクレリズマブ群で1.3〜5.5%に発生し、対照群(インターフェロン群 2.9%、プラセボ群 0.8%)と比較して一部の試験では高い頻度が確認されています。上気道感染症・尿路感染症が多く、B細胞除去による免疫抑制状態が背景にあります。
OPERA試験で注目されたのが悪性腫瘍に関するデータです。腫瘍発生はオクレリズマブ群0.5%に対しインターフェロン群0.2%という数値が報告されました。ただし、その後の長期追跡においてプラセボ群との間で有意な悪性腫瘍リスクの増加は確認されていません。初期試験での乳癌例が注目を集めましたが、因果関係は否定されています。
特に医療現場で見落としやすいリスクのひとつが、ワクチン接種のタイミング管理です。オクレリズマブはCD20陽性B細胞を広範に除去するため、ワクチン接種のタイミングを誤ると抗体応答が著しく減弱します。具体的には以下の管理が必要になります。
| ワクチン種別 | 推奨タイミング |
|---|---|
| 不活化ワクチン | 治療開始の少なくとも2〜4週間前までに接種完了 |
| 生ワクチン・弱毒生ワクチン | 治療開始の少なくとも4週間前までに接種完了、治療開始後〜B細胞回復まで接種禁止 |
| オクレリズマブ投与を受けた母親から生まれた乳児 | B細胞が回復するまで生ワクチン接種不可 |
B細胞が正常レベルに戻るまでの中央値は72週間(約17カ月)もあります。つまり、治療中止後も1年以上にわたって生ワクチン接種を控える必要があるということですね。患者の転居・転院時にもこの情報が引き継がれるよう、服薬管理指導の徹底が欠かせません。
また、治療開始前にはB型肝炎ウイルス(HBV)のスクリーニングが必須です。B細胞除去による免疫抑制下でHBVが再活性化すると劇症肝炎に至るリスクがあります。HBs抗原・HBc抗体・HBs抗体を確認し、HBVキャリアや既往感染者では肝臓専門医との連携が必要です。これは安全管理の基本です。
オクレリズマブが日本で承認されていない現状は、患者側のみならず医療従事者側にも具体的な影響を及ぼしています。日本神経学会のガイドライン(2023年版)ではオクレリズマブが「本邦未承認」と明記されつつも、その有効性・安全性のエビデンスが詳細に記載されており、専門家がこの薬剤を知識として持っていることを前提とした記述になっています。ガイドラインが教える内容と、実際に処方できる内容に乖離がある状態です。
この状況を踏まえ、日本でMS診療に関わる医療従事者が今できることは大きく3つあります。
ひとつ目は、承認薬の最適使用によるギャップ縮小です。現在国内承認されているMS治療薬(フィンゴリモド、ナタリズマブ、オファツムマブ、シポニモドなど)の中から、個々の患者の病型・活動性・リスク因子に応じて最適な薬剤を選択する判断力が、より一層求められます。特にオファツムマブ(商品名ケシンプタ)は日本でも承認されている別の抗CD20抗体薬であり、皮下注製剤という利便性もあります。オクレリズマブとの違い(静注 vs 皮下注、投与頻度、B細胞回復速度)を理解した上で患者に説明できることが重要です。
ふたつ目は、患者への正確な情報提供です。患者がインターネットで「Ocrevus 日本」と検索し、海外の情報を見て「なぜ自分は使えないのか」と疑問に思うケースが増えています。「世界標準薬が日本未承認である理由」「代替薬の選択肢」「今後の見通し」を患者が理解できる言葉で説明できる準備が求められます。
三つ目は、特例輸入・臨床研究制度の情報収集です。未承認薬を患者が入手するための制度として、薬機法上の「未承認薬の個人輸入」や「先進医療制度」があります。現時点でオクレリズマブについて公式の医師主導治験や特定臨床研究が国内で開始されているかどうか、PMDAやjRCTのデータベースを定期的に確認する習慣が、専門医には特に役立ちます。
ロシュ社のOcrevusは世界売上高1位(2024年:約76億ドル)の製品ですが、2029年に特許切れが見込まれています。特許切れ後にバイオシミラーが登場すれば、製薬企業が改めて日本市場へ参入する動機が変わる可能性もあります。国際的な承認状況の変化を継続的にウォッチしておくことが、日本のMS診療の現場では欠かせません。
日本のMS診療ガイドラインの更新状況や新規薬剤情報については、日本神経学会・日本神経免疫学会の最新情報を参照することが推奨されます。
参考リンク(日本神経学会ガイドラインの策定経緯・本邦未承認薬の現状に言及)。
多発性硬化症・視神経脊髄炎スペクトラム障害診療ガイドライン2023(概要)– 日本神経学会
参考リンク(オクレリズマブとリツキシマブの非劣性比較研究:ROC-MS研究)。
多発性硬化症治療:リツキシマブとオクレリズマブの非劣性を検証するROC-MS共同研究 – CareNet Academia