脳の鉄を除けば神経が回復すると思っていませんか?最新試験では鉄を除くほど認知機能が低下した患者が確認されています。
デフェリプロン(deferiprone、略称DFP)は、体内の過剰な鉄イオンに結合してそれを尿中へ排泄させる「経口鉄キレート剤」です。化学的には3-ヒドロキシ-1,2-ジメチル-4(1H)-ピリジノンという構造を持つ小分子化合物で、1980年代にインドで開発されました。
鉄キレート剤には現在、世界的に主に3種類が使われています。注射製剤のデフェロキサミン(DFO)、経口薬のデフェラシロクス(DFX)、そしてデフェリプロン(DFP)です。この3種類の中でデフェリプロンだけが「二座配位(bidentate)キレート剤」という構造をしており、他の薬では届きにくい細胞内の不安定鉄プール(LIP:labile iron pool)に直接アクセスできる点が大きな特徴です。
最も重要な特性が「血液脳関門(BBB)を通過できる」という点です。デフェリプロンは脂溶性が高く分子量が小さいため、他の鉄キレート剤では届かない脳内の鉄をも除去できます。これはデフェリプロン独自の強みです。この特性が後述する神経変性疾患研究への応用につながっています。
投与方法は1日2〜3回の経口服用で、用量は体重1kgあたり75〜100mgが標準とされています(適応症により異なります)。注射が不要なため患者負担が少なく、特に長期治療が必要な鉄過剰症患者にとって利便性の高い選択肢です。
つまり、脳に届く唯一の経口鉄キレート剤ということです。
一方、デフェリプロンには注意すべき副作用があります。最も重要なのが「無顆粒球症(agranulocytosis)」または「顆粒球減少症」です。服用患者の約1〜2%に好中球数が著しく減少する事態が起き、感染症のリスクが急激に高まります。欧州では1990年代の承認後にこの副作用が問題となり、定期的な血液検査(少なくとも週1回)が必須要件とされています。この管理の煩雑さが、後述する日本未承認の背景の一つともなっています。
参考:デフェリプロンの薬理情報(KEGG DRUG)
KEGG DRUG: デフェリプロン – 鉄キレート剤としての分類・化学情報
日本において現在承認されている鉄キレート剤は、デフェロキサミン(注射薬、商品名:デスフェラール)とデフェラシロクス(経口薬、商品名:エクジェイドなど)の2種類のみです。デフェリプロンはわが国では「未承認薬」という位置づけになっています。これは意外に思われるかもしれませんが、欧州では1994年、米国FDA(食品医薬品局)では2011年(小児用は2021年)に承認されているにもかかわらず、日本での薬事承認は取得されていません。
日本での未承認が続く理由は複合的です。まず、日本では輸血後鉄過剰症の主要原因となるβサラセミア(地中海貧血)患者数が非常に少ないことが挙げられます。サラセミアは地中海沿岸・東南アジア・アフリカ系の民族に多い遺伝性疾患で、日本人患者数は極めて限られており、「市場性が乏しい」と判断されやすい状況です。これが製薬企業による承認申請を困難にしています。
次に、デフェロキサミン(注射薬)が1970年代から、デフェラシロクス(経口薬)が2008年から日本で使用可能であり、鉄過剰症治療の選択肢としては一定の体制が整っていたことも背景にあります。デフェラシロクスは「日本初の経口鉄キレート薬」として登場したため、デフェリプロンの追加承認の緊急性が低く見られてきました。
ただし、日本での活用が完全にゼロというわけではありません。国内の一部大学病院では、難治性神経疾患や脳表ヘモジデリン沈着症などに対して、臨床研究・医師主導治験の枠組みでデフェリプロンを使用するケースがあります。厚生労働省の臨床研究登録システム(jRCT)やUMINには、デフェリプロンを用いた国内の研究プロトコルが複数登録されており、専門医療機関を通じた研究的使用の実態があります。
未承認薬である以上、患者が自己判断で入手・使用することは許されていません。適正な手続きを経ずに使用した場合、医療安全上のリスクはもちろん、副作用発症時の保険適用外となる問題も生じます。
参考:日本初の経口鉄キレート薬の承認経緯
日経メディカル:エクジェイド(デフェラシロクス)承認の背景と鉄キレート療法の現状
デフェリプロンが「血液脳関門を越えられる唯一の経口鉄キレート剤」であるという特性から、脳内に鉄が異常に蓄積する神経変性疾患の治療薬候補として世界的に注目を集めてきました。その代表が「NBIA(脳内鉄沈着を伴う神経変性疾患群:Neurodegeneration with Brain Iron Accumulation)」です。
NBIAは非常に稀な遺伝性疾患群で、有病率はおよそ100万人に1〜3人と推計されています。東京ドームの収容人数(約5万5千人)に換算すると、約18〜55個分の人口に1人程度という計算になります。症状は進行性のジストニア(筋肉が不随意にねじれる異常運動)やパーキンソニズム、知的障害などで、主に大脳基底核の淡蒼球や黒質に鉄が沈着していきます。現在のところ根本的な治療法がなく、対症療法のみが頼りです。
NBIAに対するデフェリプロンの小規模臨床試験(パイロット試験)では、脳内の鉄沈着量がMRI上で減少し、一部の患者で神経症状の進行抑制が示されました。これはデフェリプロンが実際に脳内に到達し、鉄を除去していることを示した重要な成果です。これは使えそうです。ただし、「劇的な臨床改善には至らない」という報告も多く、長期的な有効性については慎重な評価が続いています。
日本でも、この分野での臨床研究が動いています。国立大学病院を中心に、NBIA患者へのデフェリプロン投与研究や、「脳表ヘモジデリン沈着症」という別の難病患者への投与臨床研究が登録されています。脳表ヘモジデリン沈着症は、くも膜下腔への慢性的な出血によって脳表面にヘモジデリン(鉄含有色素)が蓄積し、難聴・失調・歩行障害が進行する指定難病(難病番号122)です。現在のところ根本的な治療法がなく、デフェリプロンによる鉄除去が症状進行を抑えられないかという観点から研究が行われています。
デフェリプロンが対象になっているのが基本です。つまり、脳内に鉄が蓄積することが病態の核心にある疾患に対して、血液脳関門を越えられるこの薬が最も論理的な選択肢として浮上しているわけです。
参考:脳表ヘモジデリン沈着症の臨床研究登録情報
厚労省臨床試験登録ポータル:脳表ヘモジデリン沈着症へのデフェリプロン投与臨床研究
参考:脳内鉄沈着神経変性疾患(NBIA)の詳細な病態解説
医知創造ラボ:NBIA(脳内鉄沈着神経変性疾患)の治療と経口鉄キレート剤デフェリプロンの役割
デフェリプロンへの期待が最も高まったのが、アルツハイマー病(AD)とパーキンソン病(PD)への応用研究でした。これらの疾患でも脳内の鉄濃度上昇が観察されており、「鉄を除去すれば病気の進行を抑えられるのではないか」という仮説のもとで大規模な臨床試験が組まれました。
しかし、2024年から2025年にかけて発表された臨床試験の結果は、医学界に衝撃を与えるものでした。
アルツハイマー病については、軽度認知障害(MCI)または初期ADの患者81人を対象とした第2相臨床試験の結果が、米国医学誌「JAMA Neurology」に発表されています。1日2回・体重1kgあたり15mgのデフェリプロンを12か月間服用した群では、プラセボ(偽薬)群と比較して、認知機能の低下がむしろ進行したことが分かりました。MRI画像では、記憶に深く関わる脳の部位「海馬」への鉄蓄積量が確かに減少していましたが、それにもかかわらず海馬の萎縮は止まらず、さらに前頭葉の萎縮が加速するという予想外の結果が得られたのです。
パーキンソン病についても、2023年に「New England Journal of Medicine(NEJM)」という最高権威の医学誌に発表されたランダム化比較試験(約200名参加)で、デフェリプロン投与群ではプラセボ群と比較してMDS-UPDRSスコア(パーキンソン病の評価スケール)が悪化するという結果が報告されました。
2025年10月にBrain誌に掲載されたまとめ論文では、「デフェリプロンによる強力な鉄キレート療法は、神経細胞の機能維持に必要な鉄を過度に除去することで、かえって神経変性を促進した可能性がある」と研究者たちは結論付けています。意外ですね。
この結果が意味するのは、「脳内の鉄の増加は、アルツハイマー病やパーキンソン病の原因というより、疾患が進行する過程で生じる結果である可能性が高い」ということです。鉄を除くだけでは病気は治らない、それどころか有害になり得るという認識の転換が起きつつあります。
副作用についても、デフェリプロン服用群では好中球減少症(免疫細胞である好中球が減少し感染リスクが上がる状態)の発症頻度がプラセボ群より有意に高く、安全面での懸念も明確になっています。
参考:アルツハイマー病へのデフェリプロン投与試験の結果(マイナビ医師向けレジデント記事)
マイナビ住人:脳内の鉄を除去するデフェリプロン、アルツハイマー病で予想外の結果
参考:神経変性疾患における鉄キレート試験の総括(CareNet)
CareNet Academia:鉄キレート剤の臨床試験結果が神経変性疾患における鉄の役割を再考させる(Brain誌2025年)
現在、デフェリプロンを巡る日本の状況は「未承認薬だが研究は動いている」という微妙な段階にあります。神経変性疾患領域での大規模試験が否定的な結果を示す一方で、NBIAや脳表ヘモジデリン沈着症など「鉄が直接病因となっている疾患」においては、引き続き慎重な有効性評価が続けられています。
世界市場の観点では、デフェリプロンの市場規模は2024年時点で約3,989万米ドル(約60億円)と推計されており、2033年には約5,522万米ドルへの成長が予測されています(年平均成長率約3.68%)。主要な需要はβサラセミアや鎌状赤血球症の患者が多い東南アジア・中東・アフリカ地域が中心で、日本を含む東アジアでのシェアは現時点では限定的です。
患者・家族が知っておくべき現実的な情報をまとめると、以下のとおりです。
| 比較項目 | デフェリプロン(DFP) | デフェラシロクス(DFX) | デフェロキサミン(DFO) |
|---|---|---|---|
| 日本での承認 | ❌ 未承認 | ✅ 承認済み | |
| 投与方法 | 経口(1日2〜3回) | 経口(1日1回) | 皮下注射(週5〜7日) |
| 血液脳関門通過 | ✅ 通過可能 | ❌ 通過不可 | |
| 主な副作用 | 無顆粒球症・好中球減少症・関節痛 | 腎機能障害・消化器症状 | 局所反応・聴覚障害 |
| 心臓内鉄除去効果 | ✅ 優れている | △ 中程度 | ✅ 有効 |
日本国内で難治性の神経疾患(特にNBIA、脳表ヘモジデリン沈着症)でデフェリプロンの使用を希望する場合、個人が独自に入手する方法は存在しません。担当の脳神経内科専門医や神経難病専門の大学病院に相談し、臨床研究への参加資格があるかどうかを確認するのが唯一の正規ルートです。難病情報センターや、各学会が公開している診療参照ガイドも参考になります。
アルツハイマー病・パーキンソン病の患者・家族にとっては、「デフェリプロンによる脳内鉄除去が病気に効く」という情報は現時点では否定されている点を認識しておく必要があります。2025年時点の医学的エビデンスは、少なくともこれら2疾患においてはデフェリプロンの使用を支持していません。
鉄を除けば解決する、は現時点では間違いです。一方で、「鉄が直接的に病態を形成している疾患(NBIA等)」と「鉄が二次的に増加している疾患(AD・PD等)」を区別することの重要性が、今回の臨床試験の結果として浮かび上がってきました。これは今後の研究の重要な方向性を示唆しています。
輸血後鉄過剰症など、デフェリプロンが本来の適応として効果が確立されている分野においては、世界的に標準治療の一つとして評価されており、日本での承認申請が将来行われる可能性はゼロではありません。特にサラセミアや血液疾患の患者が増加した場合、あるいはNBIAなどの希少疾患へのエビデンスが積み重なった場合、希少疾病治療薬(オーファンドラッグ)としての承認申請が検討される可能性があります。
参考:難病情報センター(脳表ヘモジデリン沈着症)
難病情報センター:脳表ヘモジデリン沈着症(指定難病122)の症状・治療情報
参考:輸血後鉄過剰症の診療参照ガイド(令和4年度改定版)
造血障害難治化ガイドライン研究班:輸血後鉄過剰症の診療参照ガイド2022年度改定版(鉄キレート療法の最新指針)