トリプシンと細胞剥離の原理と適切な使用法

細胞培養において不可欠なトリプシンによる細胞剥離は、どのような分子メカニズムで起こるのでしょうか。セリンプロテアーゼとしての作用機序、細胞接着分子への影響、EDTAとの相乗効果、そして適切な濃度管理まで、医療従事者が知るべき基礎知識を解説します。過剰処理によるリスクと最適な使用条件について、実験データとともに理解を深めていきませんか。

トリプシンによる細胞剥離の原理

トリプシンによる細胞剥離の仕組み
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セリンプロテアーゼとしての作用

触媒三残基(セリン、ヒスチジン、アスパラギン酸)による細胞接着タンパク質の分解

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細胞接着分子への作用

カドヘリン、インテグリンなどの接着タンパク質を特異的に切断し細胞-細胞間、細胞-基質間の結合を解除

EDTAとの相乗効果

カルシウム・マグネシウムイオンのキレート作用により、カドヘリンの接着機能を阻害し剥離効率を向上

トリプシンのセリンプロテアーゼとしての分子機構

 

トリプシンは膵臓から分泌されるセリンプロテアーゼの一種で、細胞培養における細胞剥離に広く利用されています。このプロテアーゼの触媒活性は、活性中心に存在する触媒三残基と呼ばれる構造に依存しています。触媒三残基は、セリン、ヒスチジン、アスパラギン酸の3つのアミノ酸残基から構成され、これらが協調的に働くことでペプチド結合の加水分解反応を触媒します。
参考)【やってみた】細胞をTrypsinで処理しすぎてみた - L…

セリン残基は求核剤として機能し、ヒスチジンとアスパラギン酸がセリンの水酸基から水素原子を除去することで、セリンの反応性を高めます。この電荷中継機構により、トリプシンは基質タンパク質のペプチド結合を効率的に攻撃し、切断することができます。トリプシンは特にリジンとアルギニン残基のカルボキシル基側のペプチド結合を特異的に認識して切断する性質を持ち、この基質特異性が細胞接着タンパク質の分解に重要な役割を果たします。
参考)トリプシン (Trypsin)

トリプシンは不活性な前駆体であるトリプシノーゲンとして合成され、膵臓から分泌された後、腸管内でエンテロペプチダーゼによって活性化されます。この活性化過程では、トリプシノーゲンのN末端に付加された余分なペプチド鎖が切断され、新たに生じた鎖の末端が折りたたまれたタンパク質内に収納されることで構造が安定化し、活性型トリプシンとなります。細胞培養で使用されるトリプシンは、この活性化された形態で提供されています。
参考)https://nodaiweb.university.jp/bioinfo/bio2/trypsin.html

トリプシンによる細胞接着分子の分解メカニズム

細胞が培養容器の表面や他の細胞と接着している状態を解除するためには、細胞接着を担う複数のタンパク質を分解する必要があります。細胞接着には主に2つのタイプの分子が関与しています。1つは細胞同士を結合するカドヘリンで、もう1つは細胞と細胞外マトリクスを結合するインテグリンです。
参考)★Home - 細胞培養入門 - Cute.Guides a…

カドヘリンは、細胞膜を貫通する接着タンパク質で、同じカドヘリン分子同士がカルシウムイオン依存的に結合することで細胞間接着を形成します。カドヘリンの細胞質領域は、カテニン群と呼ばれるタンパク質を介してアクチン細胞骨格と結合しており、この結合が細胞間接着の強度を支えています。トリプシンはカドヘリンの細胞外ドメインを切断することで、細胞同士の接着を解除します。
参考)Journal of Japanese Biochemica…

インテグリンは、細胞表面に存在する受容体タンパク質で、細胞外マトリクスの構成成分と結合することで細胞を培養容器の表面に固定しています。インテグリンもまた細胞内でアクチン細胞骨格と連結しており、細胞の接着と形態維持に重要な役割を果たしています。トリプシン処理により、これらの接着タンパク質が分解されることで、細胞は培養容器から剥離し、懸濁状態になります。
参考)細胞継代の手順。細胞のタイプにあった方法を選択しよう - M…

トリプシンは細胞接着分子に限らず、細胞表面に存在する多くのタンパク質を非特異的に分解する能力を持っています。このため、過剰なトリプシン処理は細胞膜タンパク質や細胞骨格の損傷を引き起こし、細胞の生存率低下や接着能力の減少につながる可能性があります。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11365101/

トリプシンとEDTAの併用による相乗効果

細胞培養の現場では、トリプシン単独ではなく、EDTAと組み合わせたトリプシン-EDTA溶液が標準的に使用されています。EDTAは、カルシウムイオンやマグネシウムイオンをキレート(捕捉)する性質を持つ化合物です。
参考)細胞の培養と継代のルーツを探ってみた件(前編) - Lear…

カドヘリンによる細胞間接着は、カルシウムイオンの存在に強く依存しています。カドヘリンの細胞外ドメインは、カルシウムイオンが結合することで適切な構造を維持し、隣接する細胞のカドヘリンと結合することができます。EDTAがカルシウムイオンをキレートすることで、カドヘリンの構造が不安定化し、細胞間接着が弱まります。
参考)細胞接着分子 - 脳科学辞典

同様に、細胞と細胞外マトリクスの接着にもカルシウムイオンやマグネシウムイオンが関与しており、EDTAによるこれらのイオンの除去は、細胞剥離を促進します。このように、トリプシンによるタンパク質分解作用とEDTAによるイオンキレート作用を組み合わせることで、より効率的かつ迅速な細胞剥離が可能になります。​
トリプシン-EDTA溶液の使用により、トリプシン単独の場合よりも低濃度・短時間での処理が可能となり、細胞へのダメージを最小限に抑えることができます。細胞株によって接着の強さが異なるため、トリプシン-EDTAを添加後、顕微鏡で観察しながら適切な処理時間を判断することが重要です。
参考)細胞の継代方法

トリプシンの最適濃度と処理時間の管理

細胞培養におけるトリプシンの一般的な使用濃度は0.05~0.25%(w/v)の範囲です。細胞株ごとに接着の強さが異なるため、最適なトリプシン濃度と処理時間を決定することが必要です。
参考)https://www.merckmillipore.com/INTERSHOP/web/WFS/Merck-JP-Site/ja_JP/-/JPY/ShowDocument-Pronet?id=202005.064

実験データによると、MRC-5細胞では0.05%のトリプシン濃度で約3分の処理時間で剥離が完了しますが、VeroやMDCK細胞では0.1%の濃度で5~6分程度の処理時間が必要です。一方、トリプシン濃度を0.25%まで増加させても、剥離時間は大幅には短縮されず、むしろ細胞へのダメージが増加するリスクが高まります。​
トリプシン処理の実施手順としては、まず培養容器から培地を除去し、PBS(リン酸緩衝生理食塩水)で細胞表面を洗浄します。次に、適量のトリプシン-EDTA溶液を添加し、容器を傾けて細胞全体に行き渡らせた後、37℃でインキュベートします。顕微鏡で細胞が丸くなり剥がれ始めたことを確認したら、血清含有培地を加えてトリプシンの活性を停止させます。​
トリプシンの活性は血清中に含まれるタンパク質分解酵素阻害剤によって停止されるため、血清含有培地の添加が重要です。トリプシン処理後は、細胞懸濁液を遠心分離してトリプシンを完全に除去し、新鮮な培地で細胞を再懸濁することが推奨されます。
参考)【やってみた】Trypsinの作用を血清が止めることを確かめ…

トリプシン過剰処理による細胞ダメージとリスク管理

トリプシンによる過剰な処理は、細胞に深刻なダメージを与えることが実験的に確認されています。HeLa細胞を用いた研究では、適切な剥離後もトリプシン処理を継続した場合、処理時間20分までは約95%の生存率を維持しましたが、30分の時点で生存率が59%まで急激に低下しました。​
過剰なトリプシン処理による影響は、単に生存率の低下だけにとどまりません。細胞濃度は処理時間20分で約3割減少し、これはトリプシンによってダメージを受けた細胞が破壊されたためと考えられています。さらに重要なのは、60分間トリプシン処理された細胞を培養ディッシュに播種した場合、一晩培養しても接着が不十分で、多数の細胞が接着できなかったという観察結果です。​
この接着効率の低下は、トリプシンが細胞表面の接着関連タンパク質を過度に分解したことに起因すると考えられます。生き残った細胞であっても、その後の培養に悪影響が残る可能性があることは、実験計画において重要な考慮事項です。​
テラヘルツ分光法を用いた研究では、トリプシン処理の最初の数秒から細胞質の組成変化が検出されることが報告されており、トリプシンの影響は予想以上に早期から始まることが示唆されています。このため、細胞剥離においては、顕微鏡で細胞が剥がれ始めたことを確認したら、速やかにトリプシンの活性を停止することが推奨されます。​
トリプシンによるダメージを最小限に抑えるための代替法として、アキュターゼなどのより穏やかな細胞剥離試薬も開発されています。また、超音波を用いた酵素フリーの細胞剥離法も研究されており、トリプシン処理に比べて細胞生存率と回収効率が向上することが報告されています。しかし、これらの代替法にもそれぞれ制約があるため、細胞株の特性や実験目的に応じて適切な方法を選択することが重要です。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6820801/

サーモフィッシャーサイエンティフィックによる、トリプシン過剰処理の影響に関する詳細な実験データと画像を含む解説記事
九州大学附属図書館による、細胞培養におけるトリプシン/EDTAの基本的な使用方法の解説

 

 


芳香族アミノ酸、トリプシン、菌メガテリウム胞子の熱ルミネッセンススペクトルと活性化エネルギー