バソプレシン(抗利尿ホルモン:ADH)は、視床下部で合成され下垂体後葉から分泌される重要なホルモンです。このホルモンは主として抗利尿作用、平滑筋収縮作用、血管収縮作用の3つの主要な効果を有しています。
最も重要な作用である抗利尿効果は、腎臓の遠位尿細管および集合管におけるV2受容体を介して発揮されます。バソプレシンがV2受容体に結合すると、細胞内でcAMPが増加し、アクアポリン2(AQP2)水チャネルが細胞膜に挿入されることで、水の再吸収が促進されます4。
この機序により、循環血液量が増加し血圧が上昇する一方で、尿量は減少します4。血漿浸透圧が上昇した際や循環血液量が減少した際に、体内の水分バランスを適正化する重要な役割を担っています。
興味深いことに、最近の研究では、バソプレシンが脳内でも腎臓と同様の機序で作用し、バソプレシン神経細胞自身の大きさの維持に働いていることが明らかになりました。これは従来の定説を覆す発見であり、脳浮腫の病態解明と治療法開発に新たな可能性をもたらしています。
バソプレシン投与時には、複数の重大な副作用に注意が必要です。最も注意すべき副作用として以下が挙げられます。
ショック(頻度不明)は最も緊急性の高い副作用の一つです。血管収縮作用により循環動態に急激な変化をもたらす可能性があります。
横紋筋融解症では、筋肉痛、脱力感、CK上昇、血中・尿中ミオグロビン上昇を特徴とし、急激な腎機能悪化を伴うことがあります。この副作用は不可逆的な腎障害につながる可能性があるため、早期発見と対応が重要です。
心不全および心拍動停止も報告されており、特に心疾患の既往がある患者では慎重な監視が必要です。バソプレシンの血管収縮作用により心負荷が増大し、心機能低下を招く可能性があります。
水中毒は、バソプレシンの抗利尿作用により体内に過剰な水分が蓄積することで発生します。これにより低ナトリウム血症を引き起こし、頭痛、嘔気、意識障害などの症状が現れることがあります。
中枢性神経障害では、重篤な低ナトリウム血症に至った場合、投与を急に中止するとナトリウム値が急速に上昇し、中心性橋脱髄症という不可逆性の中枢性神経障害を引き起こすリスクがあります。
バソプレシンの主要な臨床応用は下垂体性尿崩症の治療です。尿崩症は、バソプレシンの分泌不足(中枢性尿崩症)または腎臓でのバソプレシンに対する反応性低下(腎性尿崩症)により、大量の水分が体外に排泄される疾患です4。
中枢性尿崩症では、視床下部でのバソプレシン合成不足や下垂体からの分泌不全が原因となります。脳腫瘍、頭部外傷、感染症などが背景疾患として挙げられます4。
投与方法としては、通常成人にはバソプレシンとして1回2~10単位を必要に応じて1日2~3回、皮下または筋肉内注射します。年齢や症状に応じて適宜増減が必要であり、個々の患者の状態に応じた細やかな調整が求められます。
また、バソプレシンは子宮収縮作用も有するため、産科領域での応用も検討されることがありますが、この場合は特に慎重な適応判断が必要です。
最近では、バソプレシン誘導体であるデスモプレシンが、より選択的なV2受容体作動薬として夜尿症や軽症の中枢性尿崩症の治療に用いられることが増えています。
バソプレシン投与時には、継続的で綿密な患者監視が不可欠です。特に以下の項目について定期的な評価が必要です。
電解質バランスの監視では、血清ナトリウム値、血清浸透圧、尿浸透圧の定期的な測定が重要です。低ナトリウム血症の早期発見により、重篤な合併症を予防できます。
循環動態の評価として、血圧、心拍数、心電図変化の継続的な監視が必要です。特に高齢者や心疾患既往患者では、より頻回な評価が推奨されます。
腎機能の監視では、尿量、血清クレアチニン、BUN、CKの測定により、腎障害や横紋筋融解症の早期発見に努めます。
神経学的評価として、意識レベル、神経症状の変化を注意深く観察し、水中毒や中枢性神経障害の兆候を見逃さないことが重要です。
投与中止時には、急激な中止を避け、徐々に減量することでナトリウム値の急激な変動を防ぎます。特に低ナトリウム血症が存在する場合は、補正速度を1日あたり8-12mEq/L以下に制限することが推奨されています。
現代の医療現場では、バソプレシンの特性を理解した上で、類似薬剤との適切な使い分けが重要となっています。
デスモプレシンは、バソプレシンのV2受容体選択性を高めた誘導体で、血管収縮作用が軽減されているため、より安全性の高い選択肢として位置づけられています。特に小児の夜尿症や軽症の中枢性尿崩症では第一選択となることが多くなっています。
トルバプタンは、V2受容体拮抗薬として、バソプレシンとは逆の作用機序を持ちます。心不全や肝硬変に伴う体液貯留の治療に用いられ、水利尿薬とも呼ばれています。急激な水利尿による脱水症状や高ナトリウム血症のリスクがあり、口渇が重要な副作用のサインとなります。
最新の研究では、バソプレシンの脳内での新たな作用機序が明らかになり、脳浮腫の治療への応用可能性が示唆されています。脳梗塞、脳外傷、低ナトリウム血症に伴う脳浮腫において、バソプレシンが神経細胞の大きさを維持し、細胞の破裂を防ぐ作用があることが発見されました。
この発見は、従来の腎臓での作用機序と同様のV2受容体を介した機序が脳内でも働いていることを示しており、脳保護療法の新たな戦略として期待されています。
医療従事者は、これらの最新知見を踏まえ、患者の病態に応じた最適な薬剤選択と投与管理を行うことが求められます。特に高齢者では生理機能の低下を考慮し、より慎重な投与と監視が必要となります。
日本内分泌学会による内分泌疾患の診療ガイドライン
https://www.j-endo.jp/
日本腎臓学会による水・電解質異常の管理指針
https://jsn.or.jp/