腱鞘は、腱を保護し、その動きを円滑にする重要な組織です。特に手首や指など、可動性が高い関節周囲では、腱鞘という特殊な保護構造が存在します。腱鞘は大きく分けて2種類あり、「線維性腱鞘」と「靱帯性腱鞘」が存在します。
線維性腱鞘は、指の屈筋腱を覆う管状の構造で、腱が骨から離れないように保持する役割を持ちます。一方、靱帯性腱鞘は主に手首周辺に存在し、腱が通るトンネル状の構造を形成しています。
手首の周りには、実に24本もの腱が存在し、その中でも背側(手の甲側)には6カ所のトンネルがあり、12本の腱が通過しています。これらのトンネルはすべて腱鞘炎を発症する可能性があります。
腱鞘の内側には滑液という潤滑液が存在し、腱の滑らかな動きをサポートしています。この滑液の分泌異常や、腱鞘の肥厚により腱の動きが制限されると、炎症や痛みを引き起こし、腱鞘炎という状態に至ります。
解剖学的に重要なのは、腱鞘が存在する位置を正確に理解することです。腕の中程には腱鞘は存在せず、主に手首の関節周辺や指の付け根部分に集中しています。このため、腕の中程の痛みは「腱鞘炎」ではなく、筋肉の痛みである可能性が高いという点は、診断上重要なポイントです。
腱鞘炎には様々な種類があり、その発症部位によって特徴的な症状や名称が異なります。主な腱鞘炎の種類とその好発部位について詳しく見ていきましょう。
1. ドケルバン腱鞘炎
最もポピュラーな腱鞘炎の一つで、手首の親指側に発症します。親指の付け根から手首にかけて痛みと腫れが生じ、親指を握り込んで手首を小指側に傾けると強い痛みが誘発されます(フィンケルシュタインテスト陽性)。特に授乳中の女性に多く、「ママ手」とも呼ばれることがあります。ホルモンの変化も関与していると考えられています。
2. ばね指(屈筋腱鞘炎)
指の付け根(手のひら側)に発症する腱鞘炎で、指を曲げ伸ばしする際に「カクン」という引っかかり感や飛び跳ねるような感覚を伴います。これは、腱鞘の肥厚により腱の動きが制限され、一度引っかかった後に急に解放されるためです。
3. 尺側手根伸筋腱鞘炎
手首の小指側に痛みを生じる腱鞘炎です。手首を動かす際に小指側に痛みが走ります。この症状はTFCC損傷(三角線維軟骨複合体損傷)と症状が類似しているため、注意深い鑑別診断が必要です。
4. 総指伸筋腱鞘炎
手の甲側の腱鞘炎で、指を伸ばす際に痛みを感じます。手首を曲げると痛みが増強することが特徴です。
5. 軋音性腱周囲炎
腱鞘の中で腱が動く際に、摩擦により「ギシギシ」という音を伴う炎症状態です。患者自身も異音を自覚することがあります。
6. 尺側手根屈筋腱炎と橈側手根屈筋腱炎
手首の屈側(手のひら側)で発症する腱鞘炎です。手首を曲げる際に痛みを感じます。
特筆すべきは、これらの腱鞘炎は単独で発症することもあれば、複数の型が同時に生じることもあるという点です。また、好発部位をしっかり理解することで、患者の訴える症状と照らし合わせた的確な診断が可能になります。
腱鞘炎は様々な原因で発症しますが、主に「過度の使用」と「基礎疾患」の2つに大別できます。最も一般的な原因は手や指の過度な使用による腱と腱鞘の摩擦です。
1. 現代社会における原因
現代社会では、生活習慣や職業に関連した原因が増えています。
特に注目すべきは、スマートフォンの長時間使用による親指の第2関節の痛みを訴える患者が近年急増していることです。これはドケルバン腱鞘炎の新たな要因となっています。
2. 生理学的・病理学的リスク因子
腱鞘炎の発症には、単なる使い過ぎだけでなく、様々な生理学的・病理学的要因が関与しています。
3. 解剖学的要因
個人の解剖学的特徴も腱鞘炎の発症に影響します。
4. 年齢と性別の影響
腱鞘炎は幅広い年齢層で発症しますが、40〜60代の女性に特に多く見られます。これは、ホルモンバランスの変化や、家事・育児など女性特有の生活習慣が関連していると考えられています。
医療従事者として重要なのは、患者の職業や日常生活での手の使い方、基礎疾患などを包括的に評価し、原因を特定することです。これにより、単に症状を緩和するだけでなく、再発予防のための具体的なアドバイスを提供することが可能になります。
腱鞘炎の診断は、症状の詳細な聴取と身体所見の慎重な評価が基本となります。特に痛みの部位、性質、増悪因子などは重要な診断情報です。
1. 診断のための理学的検査
腱鞘炎の代表的な診断テストには以下のようなものがあります。
2. 画像診断
多くの腱鞘炎は臨床症状と身体所見で診断可能ですが、必要に応じて以下の画像検査を実施します。
3. 鑑別診断
腱鞘炎と症状が類似する疾患との鑑別は重要です。
4. 特殊なケースでの診断アプローチ
正確な診断は適切な治療計画の基礎となるため、患者の訴えを丁寧に聴取し、理学的検査を慎重に実施することが重要です。特に非特異的な症状を呈するケースでは、画像検査を含めた総合的な評価が診断の精度を高めます。
腱鞘炎の治療は、保存療法から手術療法まで幅広く、近年では新たな治療法も登場しています。症状の程度や期間、患者の活動レベル、基礎疾患などを考慮して、個別化した治療計画を立てることが重要です。
1. 保存療法
多くの腱鞘炎は保存療法で改善します。
2. 薬物療法
3. 最新治療法
近年、従来の治療に抵抗性を示す難治例に対して、新たな治療アプローチが注目されています。
4. 手術療法
保存的治療で改善しない場合や、重度の症状には手術療法が検討されます。
5. 治療の将来展望
腱鞘炎治療の分野では、以下のような新たなアプローチが研究されています。
一方で、従来の保存療法の質を高めるための「リハビリテーションプロトコルの最適化」や「装具設計の革新」なども重要な研究テーマとなっています。
腱鞘炎の予防は、治療と同様に重要です。医療従事者として、患者への適切な指導と職場環境の改善提案は、腱鞘炎の発症予防と再発防止に大きく貢献します。
1. 日常生活での予防策
患者に指導すべき基本的な予防措置には以下があります。
2. スマートフォン使用に関する特別な指導
近年増加しているスマートフォン関連の腱鞘炎に対しては、以下のアドバイスが有効です。
3. 職場環境の改善提案
職業関連の腱鞘炎予防には、職場環境の整備が欠かせません。
4. 効果的なセルフケア方法
患者が自宅で実践できるセルフケア方法として、以下を指導します。
5. 予防のためのモニタリング
腱鞘炎の早期発見と予防のために、以下のモニタリングを患者に指導します。
予防と早期介入は治療よりも効果的であるため、リスクの高い患者には定期的なフォローアップを行い、症状の早期発見と生活習慣の修正を促すことが重要です。
職場関係者との連携も効果的で、産業医や産業看護師と協力して、腱鞘炎予防のための職場環境改善プログラムを実施することも検討すべきです。