トリクロロエチレンによる人体への最も顕著な影響は、中枢神経系に現れる様々な症状です 。慢性的な曝露を受けた労働者は、頭痛、めまい、眠気、倦怠感、指の震え、神経過敏、悪心、食欲不振などの自覚症状を高頻度で訴えています 。
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/79-01-6.html
急性の高濃度暴露では、より深刻な影響が現れます。短時間に大量の蒸気を吸い込むと、眼や鼻、のどに刺激を感じ、続いて頭痛やめまい、嘔吐といったアルコール酩酊と同様の症状が現れ、最終的に意識を失って倒れることもあります 。
参考)https://www.sankyo-chem.com/news/post-1229/
特に注目すべきは、比較的低濃度の長期間曝露でも神経系への影響が現れることです 。研究では曝露濃度が40ppmを超えると振戦、めまい、不安感、アルコール不耐性を示す症例が多く見られることが報告されており 、中枢神経系抑制により日本でも高濃度曝露による死亡事例が労働災害として報告されています 。
参考)https://www.env.go.jp/content/900530523.pdf
トリクロロエチレンの発がん性については、国際がん研究機関(IARC)において2014年にグループ2A(ヒトに対しておそらく発がん性がある)からグループ1(ヒトに対して発がん性がある)に昇格されており、発がん性が明確に確認された物質として位置づけられています 。
参考)https://www.hummingwater.com/life/glossary/088/
80種以上の論文を検討したメタ分析によると、トリクロロエチレンの曝露により腎臓がん、肝臓がん、悪性リンパ腫のリスクが増加することが示されています 。特に腎臓がんについては、曝露群全体の統合相対リスクが1.27(95%CI:1.13-1.43)、高曝露群では1.58(95%CI:1.28-1.96)と有意な増加が認められています 。
参考)https://www.env.go.jp/content/900500481.pdf
フランスで実施された症例対照研究では、腎細胞がんとトリクロロエチレン曝露との関連性が詳しく分析されました。8時間シフト中の平均曝露量が35ppm以上でオッズ比1.62、50ppm以上で2.80、75ppm以上では2.92と、曝露量に比例してリスクが増大することが確認されています 。
参考)https://www.mhlw.go.jp/content/11201000/000454959.pdf
トリクロロエチレンが引き起こす最も特徴的な職業病の一つが腸管嚢腫様気腫症(PCI:Pneumatosis Cystoides Intestinalis)です 。この疾患は1983年に信州大学の研究グループによって初めてトリクロロエチレン曝露との関連が指摘されました 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/sangyoeisei/57/2/57_D14004/_pdf
1980年代から1990年代にかけて数多くの症例が報告されており、日本国内では46件の個別症例が文献で確認されています 。興味深いことに、海外ではトリクロロエチレン曝露と関連した腸管嚢腫様気腫症の報告は見られず、日本特有の職業病として認識されています 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/sangyoeisei/57/2/57_A14002/_html/-char/ja
症例の疫学的特徴として、腹部膨満感、排ガス、腹痛、交代性便通異常、泡沫状粘血便といった症状が高率に認められ、特に女性のトリクロロエチレン作業者において症状合併率が有意に高いことが報告されています 。多くの症例でトリクロロエチレンと同時に高濃度のメタノールに曝露されており、混合曝露が発症に影響している可能性が示唆されています 。
参考)https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-01480198/
トリクロロエチレンは肝臓と腎臓に対して重篤な影響を与えます。高濃度曝露では肝・腎障害が認められ、慢性毒性として比較的低濃度の長期間曝露でも臓器機能に影響が現れることが知られています 。
参考)https://www.env.go.jp/content/900530506.pdf
腎臓への影響については、動物試験で得られた無毒性量(NOAEL)を基に評価が行われており、11mg/kg/日が経口暴露における基準値として設定されています 。実際の臨床例では、飲み込んでしまった場合に嘔吐や下痢などの胃腸管刺激症状が現れ、眠気を催し、腎臓機能が停止して意識を失うケースが報告されています 。
参考)https://riss.aist.go.jp/wp-content/uploads/2021/07/trichloroethylene_summary.pdf
肝機能については、トリクロロエチレンのような塩素系溶剤では肝障害が予想されるものの、急性曝露時の肝障害性はそれほど強くないとされています 。しかし、慢性的な曝露では肝機能への影響が蓄積され、長期的な健康リスクとなる可能性があります。
トリクロロエチレンによる健康被害を防ぐためには、適切な防護対策と管理システムの構築が不可欠です。労働安全衛生法では、トリクロロエチレンは特定化学物質として厳格に管理されており、作業環境の整備と労働者の健康管理が義務づけられています 。
参考)https://www.hoshc.org/board/detail.cgi?sheet=hp11amp;no=132
作業現場では以下の防護措置が必要です:
施設管理においては、地上設置を原則とし、やむを得ず地下に設置する場合は地下ピット内に設置することが求められています 。また、床面や受皿へのトリクロロエチレンの漏出点検、ためますや分離槽の管理も重要な管理項目です 。
参考)https://www.meti.go.jp/shingikai/kagakubusshitsu/anzen_taisaku/pdf/g90723c17j.pdf
健康管理面では、有機溶剤健診が法的に義務づけられており、尿中トリクロロ酢酸濃度の測定により曝露量を評価します。日本産業衛生学会が勧告する生物学的許容値は50mg/Lとされており、この値を超える場合は曝露対策の見直しが必要です 。労災認定事例では、尿中トリクロロ酢酸濃度が77~745mg/L(許容値の1.5~15倍)という高い値が記録されており、適切な管理の重要性が示されています 。
参考)https://joshrc.net/archives/1714
厚生労働省職場のあんぜんサイト:トリクロロエチレンの化学物質情報とGHS分類
環境省:トリクロロエチレンの有害性評価書(まとめ)
厚生労働省:トリクロロエチレンの有害性総合評価表