アセチルコリンは神経伝達物質として最初に同定された歴史的に重要な物質であり、その受容体はニコチン受容体とムスカリン受容体の2つに大別されます。ムスカリン受容体は、副交感神経支配器官に広く分布し、心拍数の減少、唾液分泌の促進、腸蠕動の亢進など、副交感神経系の主要な作用を媒介します。
参考)https://www.jaam.jp/dictionary/dictionary/word/0811.html
ムスカリン受容体の名称は、毒キノコ由来のアルカロイドであるムスカリンがこの受容体に選択的に結合することから命名されました。一方でアセチルコリンは、ムスカリン受容体とニコチン受容体の両方に作用する内在性リガンドとして機能します。この受容体システムは、副交感神経終末から分泌されたアセチルコリンが標的臓器のムスカリン受容体と結合することで、生理的効果を発揮する仕組みになっています。
参考)アセチルコリン受容体 - Wikipedia
ムスカリン受容体には、M1からM5までの5種類のサブタイプが存在し、いずれも細胞膜を7回貫通する構造を持つGタンパク質共役受容体(GPCR)です。これらのサブタイプは、アミノ酸配列の相同性に基づいてM1/M3/M5サブファミリーとM2/M4サブファミリーの2つのグループに分類されます。
参考)ムスカリン受容体 (生体の科学 42巻5号)
M1、M3、M5受容体は、Gq/G11型Gタンパク質を介してホスホリパーゼCを活性化し、細胞内カルシウム濃度の上昇を引き起こします。一方、M2とM4受容体は、Gi/Go型Gタンパク質を介してアデニル酸シクラーゼを阻害し、カリウムチャネルの開口を促進します。これらの受容体の細胞内第3ループ(I3ループ)は長く、サブタイプ間でアミノ酸配列の相同性が低いため、サブタイプ選択的な薬物開発の標的となっています。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/141/6/141_321/_pdf
X線結晶構造解析により、ヒトムスカリンM2受容体の立体構造が世界で初めて明らかにされ、抗コリン薬である3-キヌクリジニルベンジラート(QNB)の結合様式が解明されました。この構造情報は、より選択的な薬物の設計に重要な知見を提供しています。
参考)ヒトのムスカリン性アセチルコリン受容体M2サブタイプのX線結…
各ムスカリン受容体サブタイプは、異なる組織に特異的に分布し、多様な生理機能を担っています。M1受容体は主に胃や脳に分布し、認知機能や学習記憶に重要な役割を果たします。M2受容体は心臓に高密度で存在し、心拍数の減少や心筋収縮力の抑制に関与します。
参考)循環器用語ハンドブック(WEB版) アセチルコリン
M3受容体は平滑筋や腺組織に広く分布し、気管支平滑筋の収縮、膀胱の収縮、腺分泌の亢進などを引き起こします。特に膀胱においては、M2とM3受容体が約80%対20%の割合で共存しており、膀胱の収縮性制御において協調的に機能しています。
参考)https://www.takanohara-ch.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/di201506.pdf
M4受容体は脳内に広く分布し、神経伝達の調節に関与します。M5受容体の分布は限定的ですが、脳血管の拡張などに関与することが報告されています。これらのサブタイプの特異的な分布と機能は、疾患治療における標的選択の基盤となっています。
ムスカリン受容体に作用する薬物は、作動薬(アゴニスト)と拮抗薬(アンタゴニスト)に大別されます。作動薬の代表例として、口腔乾燥症治療薬である塩酸ピロカルピンがあり、唾液腺のムスカリン受容体を刺激して唾液分泌を促進します。
参考)302 Found
拮抗薬では、アトロピンが最も古典的な薬物として知られており、ムスカリン受容体を非選択的に遮断します。アトロピンは散瞳作用、気管支拡張作用、徐脈の改善などに用いられますが、口渇、尿閉、便秘などの副作用が問題となります。
参考)ムスカリン受容体拮抗薬 - Wikipedia
近年では、サブタイプ選択的な拮抗薬の開発が進んでおり、過活動膀胱の治療薬として、M3受容体選択性を持つダリフェナシンやイミダフェナシンが臨床使用されています。これらの薬物は、膀胱平滑筋のM3受容体を選択的に遮断することで、心臓への影響を最小限に抑えながら排尿症状を改善します。
参考)302 Found
慢性閉塞性肺疾患(COPD)や気管支喘息の治療には、チオトロピウムやイプラトロピウムなどの長時間作用型ムスカリン拮抗薬(LAMA)が使用され、気管支平滑筋の弛緩による気道拡張効果を発揮します。
アルツハイマー病では、コリン作動性神経の変性とアセチルコリンの減少が病態の中心的な要因の一つとされています。このため、ムスカリン受容体、特にM1受容体の活性化が、認知機能改善の有望な治療標的として注目されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3913542/
M1受容体アゴニストは、アミロイドβの産生を抑制し、タウタンパク質のリン酸化を調節することで、アルツハイマー病の根本的な病態進行を抑制する可能性が示されています。実際に、M1受容体選択的アゴニストの開発が進められており、前臨床試験で有望な結果が報告されています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7616177/
興味深いことに、M1受容体依存的なシナプス可塑性の低下が、加齢に伴う認知機能低下やアルツハイマー病発症に関与することが明らかになっています。このメカニズムの解明により、より効果的な治療戦略の開発が期待されます。
参考)ムスカリン受容体依存シナプス可塑性の仕組みとアルツハイマー病…
アルツハイマー病患者にうつ症状を併発した場合、抗うつ薬の選択には注意が必要です。多くの抗うつ薬は抗コリン作用を持ち、ムスカリン受容体を遮断することで認知機能をさらに悪化させる可能性があります。最近の研究では、フルボキサミン、ミルナシプラン、ベンラファキシンなど、ムスカリン受容体への結合性が低い抗うつ薬が推奨されています。
参考)アルツハイマー型認知症患者に推奨できる抗うつ薬を明らかに
パーキンソン病では、ドパミン神経の変性により、相対的にアセチルコリンの作用が優位になることが知られています。このアセチルコリン過剰状態が、筋固縮や振戦などのパーキンソン症状の一因となります。
パーキンソン病の治療において、トリヘキシフェニジルなどの中枢性抗コリン薬は、脳内のムスカリン性アセチルコリン受容体を遮断することで症状を緩和します。これらの薬物は特に、抗精神病薬によって誘発される薬物性パーキンソン症候群の治療にも有効です。
参考)https://www.medisere.co.jp/mediserebook/pdf/read5.pdf
しかし、ムスカリン受容体拮抗薬の長期使用は、認知機能の低下や統合失調症様の精神症状を引き起こすリスクがあります。このため、現代のパーキンソン病治療では、ドパミン補充療法が第一選択となり、抗コリン薬は補助的な役割に位置づけられています。
近年の研究では、M4受容体選択的な調節薬が、パーキンソン病の運動症状改善と認知機能への悪影響の軽減という両立が困難だった課題を解決する可能性が示されています。このような次世代型のサブタイプ選択的薬物の開発により、より安全で効果的な治療法の確立が期待されます。