日本人の1,000人に1人がグロビン鎖の異常を持って生まれており、自覚症状なしに鉄剤を飲み続けると逆効果になる場合があります。
グロビン鎖とは、赤血球の中に存在するタンパク質「ヘモグロビン(Hb)」を構成するポリペプチド鎖のことです。ヘモグロビンは酸素を肺から全身の組織へ運ぶ役割を担っており、その構造の中核をなすのがこのグロビン鎖です。
ヘモグロビン1分子は、4本のグロビン鎖が集まった「四量体」として存在します。それぞれのグロビン鎖には「ヘム」と呼ばれる鉄を含む赤色素が1個ずつ結合しており、1分子のヘモグロビンには合計4個のヘムがあります。つまり、1分子で最大4つの酸素分子を運ぶことができます。
「酸素と結合するのはヘムの鉄」が基本です。
しかしグロビン鎖の役割はヘムを"支える器"に留まりません。グロビン鎖のアミノ酸配列が作り出す立体構造(三次元的な折り畳み)が、酸素の結合しやすさ(酸素親和性)を精密に制御しているのです。グロビン鎖の形が少し変わるだけで、ヘモグロビンが酸素を「拾う」タイミングと「放す」タイミングが変わります。この巧みな仕組みによって、肺では酸素を効率よく取り込み、全身の細胞ではしっかりと酸素を解放することが可能になります。
ヘモグロビンを「赤血球の中の酸素運送トラック」に例えるなら、グロビン鎖はそのトラックのボディ(車体構造)であり、ヘムは荷台の「フック」に当たります。フック(ヘム)が酸素を引っかける力は、車体(グロビン鎖)の設計によって決まる、ということです。
なお、ヘモグロビン全体の重さで見ると、赤血球の重量の約3分の1がヘモグロビンで占められており、赤血球中のタンパク質のほぼすべてがヘモグロビンといえます。赤血球が赤く見える理由も、このヘモグロビン(正確にはヘム中の鉄)の色によるものです。
参考:ヘモグロビンの基本構造と機能について詳しく解説しています。
【ヘモグロビン】UMIN SQUAREサービス(京都大学医学部附属病院 輸血部)
グロビン鎖には複数の種類があり、それぞれ異なるアミノ酸配列と機能を持っています。大きく分けると「α鎖グループ」と「非α鎖グループ(β鎖グループ)」の2系統です。
α鎖グループは141個のアミノ酸からなるα鎖と、胎生期初期にのみ現れるζ(ゼータ)鎖を含み、その遺伝子は第16番染色体の短腕末端に位置しています。非α鎖グループは146個のアミノ酸からなるβ鎖のほか、γ(ガンマ)鎖・δ(デルタ)鎖・ε(イプシロン)鎖から構成され、これらの遺伝子はすべて第11番染色体の短腕上にクラスターを形成して並んでいます。
成人の赤血球に含まれるヘモグロビンの組成を見ると、90%以上がHbA(α₂β₂)、約2%がHbA₂(α₂δ₂)、1%以下がHbF(α₂γ₂)という構成です。糖と結合したHbA₁も約7%存在します。
| 種類 | グロビン鎖の組み合わせ | 主な存在時期 | 成人での割合 |
|---|---|---|---|
| HbA(成人型) | α₂β₂ | 生後〜成人 | 90%以上 |
| HbA₂ | α₂δ₂ | 生後〜成人 | 約2% |
| HbF(胎児型) | α₂γ₂ | 胎児〜生後6ヶ月 | 1%以下 |
| HbA₁(糖化Hb) | HbA+糖 | 成人 | 約7% |
重要なのはα鎖と非α鎖が「過不足なく均衡を保って合成されている」という点です。通常、これらは互いにちょうどよい量で作られ、余った鎖が蓄積しないようになっています。この均衡が乱れると、溶血性貧血などの深刻な状態を招きます。均衡が原則です。
各グロビン鎖は「疎水性ポケット」と呼ばれる分子内の空洞にヘムを1個ずつ格納しており、このポケットの構造がヘム鉄の酸素結合特性を微細に調整しています。アミノ酸1個が変わるだけでこのポケットの形状が変わり、ヘモグロビン全体の働きに影響することがあります。
参考:α鎖・β鎖の遺伝子座(染色体上の位置)や各グロビン鎖の詳細情報。
赤血球(コトバンク)- グロビン鎖遺伝子の染色体マッピングに関する記述あり
グロビン鎖について特に注目すべき仕組みが「グロビンスイッチング(Hb switching)」です。これは胎児期から成人期にかけて、使用するグロビン鎖の種類が段階的に切り替わっていく現象です。
胎児のヘモグロビン(HbF)は、成人のHbAのβ鎖ではなく、γ(ガンマ)鎖を持つα₂γ₂という構成です。このHbFは成人型のHbAよりも酸素親和性が高く、母体の血液から胎盤を通して酸素を効率よく「横取り」するように設計されています。その秘密は「2,3-BPG(2,3-ビスホスホグリセリン酸)」という物質にあります。
2,3-BPGは赤血球内に存在する有機リン化合物で、成人のヘモグロビンに結合するとその酸素親和性を下げる働きをします。ところが、胎児のHbFにはこの2,3-BPGが結合しにくい構造になっています。これにより、同じ2,3-BPG濃度の環境でも、HbFは常にHbAより酸素を強く握りしめることができるのです。これは使えそうです。
胎盤の近くで母体のHbAが酸素を手放すと、その酸素をすかさずHbFがキャッチする——この連携プレーによって、胎児は母体の血液から効率的に酸素を受け取ります。
このグロビンスイッチングの切り替わりは、妊娠約28〜34週頃に始まり、生後約6ヶ月までにほぼ完了します。成人の血液中のHbFは1%以下というわずかな量になります。
このスイッチングを制御するのが「BCL11A(ビーシーエルイレブンエー)」というタンパク質です。BCL11AはHbFのγ鎖遺伝子の発現を抑制(サイレンス)するサイレンサーとして機能し、これが成人型ヘモグロビンへの切り替えを引き起こします。近年、このBCL11Aを標的にした遺伝子治療が、鎌状赤血球症の治療法として実際に臨床応用されています。成人になってもHbFの割合を高い状態に保つことで、鎌状赤血球の変形を抑えるという発想です。
参考:胎児ヘモグロビンのγ鎖と2,3-BPGの関係、BCL11Aによる遺伝子制御について詳しく解説。
胎児ヘモグロビン(PDBj 入門 今月の分子)- 構造と機能の詳細解説
グロビン鎖の量的な産生異常によって引き起こされる遺伝性疾患を「サラセミア」と呼びます。αグロビン鎖の産生が低下する場合をαサラセミア、β鎖の産生が低下する場合をβサラセミアといいます。
実はこの疾患、日本人にも無視できない頻度で存在します。βサラセミアは日本人のおよそ1,000人に1人、αサラセミアは3,500人に1人の頻度で保因者がいるとされています。地中海沿岸や東南アジアに多いイメージがありますが、決して「外国の病気」ではありません。
サラセミアの本質は、α鎖と非α鎖の「不均衡」です。α鎖ばかりが余る、あるいはβ鎖ばかりが余るという状態になると、余分なグロビン鎖が凝集・変性し、赤血球の膜を傷つけて溶血を引き起こします。これが小球性低色素性貧血(赤血球が小さく色が薄い貧血)として現れます。
日本人の軽症型βサラセミアでは、全体の6%しか溶血性貧血の症状が見られないとされています。残り94%は血液検査で小球性貧血が見つかっても症状がないため、「鉄欠乏性貧血」と誤診されやすいのが現実です。
鉄欠乏性貧血と誤診されると、鉄剤が処方されます。しかしサラセミアは「鉄不応性」の貧血であるため、鉄剤を飲んでも貧血は改善しません。それどころか、必要のない鉄を体内に蓄積させてしまう可能性があります。これは逆効果ですね。
気になる場合は血液専門医への受診と遺伝子検査の検討が選択肢となります。
参考:サラセミアの疫学・診断・治療方針について、日本小児血液・がん学会監修の詳細情報が掲載されています。
グロビン鎖の「量」ではなく「質」の異常、つまりアミノ酸配列の変異によって引き起こされる代表疾患が「鎌状赤血球症(HbS症)」です。これはグロビン鎖異常の中でも世界的に最も多く知られた疾患です。
原因は驚くほど小さな変化です。βグロビン鎖の146個のアミノ酸のうち、わずか1個、6番目のアミノ酸が「グルタミン酸(Glu)」から「バリン(Val)」に置き換わっただけです。この1か所の変異により「ヘモグロビンS(HbS)」という異常なヘモグロビンが作られ、血液中の酸素濃度が低下すると、HbSが互いに重合して繊維状の固まりを形成します。
アミノ酸1個の違いが赤血球の形を変えます。
この繊維状の構造が赤血球を「鎌型」に変形させ、細い血管に詰まって血流を阻害します。鎌型赤血球は脆くて壊れやすく、溶血性貧血を引き起こします。また、血管閉塞による強烈な痛みの発作(血管閉塞クリーゼ)も特徴的な症状で、患者さんの生活の質に大きく影響します。
一方で、このHbSの変異は地域によっては「マラリアへの抵抗性」をもたらすという側面もあります。マラリア原虫が感染した赤血球がHbSの影響で壊れやすいため、重症マラリアになりにくいという選択的な優位性があります。これがアフリカなどマラリア流行地域でこの遺伝子が高頻度に保持され続けてきた理由と考えられています。意外ですね。
近年、この鎌状赤血球症の治療に「胎児ヘモグロビン(HbF)の再活性化」というアプローチが注目されています。前述のBCL11Aを標的にした遺伝子治療によってγ鎖の発現を高め、HbFを増やすことで鎌状変形を抑制する方法で、実際に欧米では臨床応用が進んでいます。血中ヘモグロビンの約20%以上がHbFになれば症状を抑制できると分かっています。
参考:鎌状赤血球症のβグロビン変異(6番目Glu→Val)の詳細と、最新治療の情報。
グロビン鎖の役割を語る上で、教科書ではやや軽く扱われがちな「アロステリック効果」について詳しく押さえておくと、血液疾患や検査値を理解する上で大きなヒントになります。
アロステリック効果とは、タンパク質の「活性部位でないところ」に何かが結合することで、タンパク質全体の機能が変わる現象です。ヘモグロビンの場合、1つのグロビン鎖のヘムに酸素が結合すると、そのグロビン鎖の立体構造が変化し、その変化が隣のグロビン鎖にも波及します。するとその隣のヘムも「酸素を受け取りやすい状態」に変わります。この「1個結合すると次も結合しやすくなる」連鎖反応が、ヘモグロビンの酸素解離曲線をシグモイド(S字)カーブにする理由です。
S字カーブが基本です。
この仕組みは非常に合理的です。たとえるなら、4席の乗り物(四量体)に乗客(酸素)が1人乗ると、次の乗客が乗るためのドアが自動的に開きやすくなる——そんなイメージです。おかげで肺(高酸素濃度)では集中的に酸素を積み込み、末梢組織(低酸素濃度)では効率よく酸素を降ろすことができます。
さらに以下の3つの要因がグロビン鎖の立体構造を変化させ、酸素親和性をリアルタイムで調節しています。
同じ酸素を運ぶタンパク質でも、筋肉に存在するミオグロビン(単量体)にはこのアロステリック効果がありません。ミオグロビンの酸素解離曲線は単純な双曲線で、ヘモグロビンのような「状況に応じた可変性」を持ちません。グロビン鎖が4本集まった四量体という構造こそが、この精密な制御を可能にしているのです。
このアロステリック機構を理解しておくと、高地トレーニングで赤血球が増える理由や、輸血後の赤血球がすぐに機能しにくい理由(保存中に2,3-BPGが低下するため)なども自然と理解できるようになります。これが条件です。
参考:ヘモグロビンのアロステリック効果とボーア効果について図解入りで詳しく解説されています。
アロステリック効果(UMIN SQUAREサービス・輸血医学)