硝子体内注射は「手術」ではなく「注射」なのに、保険会社によっては手術給付金の対象になることがある。
硝子体内注射(抗VEGF療法)は、加齢黄斑変性症・糖尿病黄斑浮腫・網膜静脈閉塞症・近視性脈絡膜新生血管などの治療に用いられる眼科処置です。眼球の硝子体内に直接薬剤を注入するため、患者にとっての心理的ハードルは決して低くありません。しかし処置そのものは外来でおおむね30分前後で完結し、入院を要しない点が特徴です。
使用される主な薬剤は、ラニビズマブ(ルセンティス)・アフリベルセプト(アイリーア)・ブロルシズマブ(ベオビュ)・ファリシマブ(バビースモ)などで、いずれも健康保険適用となっています。薬剤の薬価は概ね12〜18万円程度と高額ですが、公的保険が適用されるため、3割負担の患者では1回あたり約4〜5万円の自己負担となります。
これが問題の出発点です。
加齢黄斑変性症では治療開始から最初の3ヶ月間は毎月1回注射を行い、その後も病状によっては月1〜2回のペースで継続することがあります。年間で10回以上の注射が必要になる患者も珍しくなく、3割負担であれば年間40〜50万円規模の出費になる計算です。高額療養費制度の活用で上限額は設定されますが、それでも毎月数万円の支出が続くことになります。
こうした経済的負担の文脈で、「生命保険(医療保険)の手術給付金が使えないか」という患者からの質問が医療現場で増えています。つまり、この話題は患者に正確な情報を提供する立場の医療従事者にとっても無視できないテーマなのです。
加齢黄斑変性で民間保険の給付金が受け取れるケースとは?(ミルエル/CFP監修)
※保険の種類別の給付対象条件と注意点を詳述しており、患者への説明資料としても参考になる。
「手術給付金」が支払われるかどうかは、保険会社が定める約款の「手術給付倍率表」または「支払対象手術一覧」に、当該処置が掲載されているかどうかで決まります。これが原則です。
民間医療保険の手術給付金の支払対象は大きく2種類あります。一つは、公的医療保険の診療報酬点数表で「手術料」として算定される約1,000種の手術をすべて対象とするタイプ。もう一つは、保険会社が独自に定める「88種(または89種)」の手術を対象とするタイプです。
ここが重要なポイントです。
硝子体内注射(G016)は、診療報酬上「注射」として算定されます。手術料ではありません。そのため、前者の「約1,000種の手術」タイプの保険であっても、基本的には支払対象外となります。一般的には手術給付金の対象外と判断されることが多いのは、この理由によります。
ところが、プルデンシャル生命の手術給付倍率表では「硝子体内注射」が手術番号69番・給付倍率10倍として明示されています。これは同社の約款が、診療報酬上の「手術」分類に限定せず、独自の基準で対象を定めているためです。入院給付金日額が5,000円の契約であれば、10倍=50,000円の手術給付金が支払われる可能性があります。
つまり、「加入している保険会社と契約時期」が非常に重要です。
医療従事者として患者から「保険は使えますか?」と聞かれた際の適切な回答は、「保険会社の約款を確認するか、直接保険会社へ問い合わせてください」です。担当医が特定の保険会社名を出して断言することは避けましょう。また、処置を「手術」と表現することで患者が誤った期待を持つ可能性もあるため、言葉の使い方にも注意が必要です。
プルデンシャル生命 手術給付倍率表(硝子体観血手術カテゴリ)
※硝子体内注射が給付倍率10倍で掲載されていることが確認できる公式ページ。
抗VEGF薬の薬価は薬剤によって異なりますが、ルセンティス(ラニビズマブ)が約18万円、アイリーア(アフリベルセプト)が約16万円と高額です。保険診療での自己負担は次のようになります。
| 薬剤 | 1割負担 | 3割負担 |
|---|---|---|
| ラニビズマブBS(ルセンティスBS) | 約7,400円 | 約22,000円 |
| アイリーア(アフリベルセプト) | 約14,000円 | 約51,000円 |
| バビースモ(ファリシマブ) | 約17,000円 | 約52,000円 |
こうした費用が毎月かかるとなると、高額療養費制度の活用が重要になります。70歳未満の一般所得者(年収370〜770万円程度)の場合、1ヶ月の自己負担上限は「80,100円+(医療費−267,000円)×1%」です。両眼を同月内に注射すれば合算でき、上限額を超えた分は還付されます。ここで1つ覚えておきたいのは、同月内に両眼を治療すると高額療養費の適用を受けやすいという点です。
生命保険の手術給付金が支払われる場合は、これと重複して受け取ることができます。生命保険の給付金は非課税であり、医療費の多寡に関わらず約款通りの金額が支払われるため、高額療養費で還付された分と合わせて活用できるメリットがあります。
患者への説明としては、「高額療養費の手続きと、お持ちの生命保険への請求、どちらも並行して確認してください」という案内が有効です。医療機関では高額療養費制度についての案内は行いやすいですが、民間保険の給付については「保険会社へ直接お問い合わせください」と促すことが最も適切で誠実な対応といえます。
ツカザキ病院 硝子体注射の費用と高額療養費について
※費用の目安と高額療養費活用の具体的な案内が示されており、患者説明の参考になる。
保険会社へ給付金を請求する際の流れと、医療従事者として知っておくべき注意点を整理します。これは実務上の落とし穴が多い箇所です。
まず、患者が保険会社へ問い合わせる際に必要になるのが「正式な手術名(または処置名)」です。診療明細書には「G016 硝子体内注射」と記載されていますが、保険会社の検索ツールでは手術名の表記が異なることがあります。例えば「レーザー光凝固術」は診療明細書上「レーザー治療」と記載されることが多く、保険会社の検索ツールでは「網膜光凝固術」で検索しないとヒットしないケースがあります。硝子体内注射についても同様に、表記の揺れが生じることがあるため、不明な場合は担当医または受付スタッフが明細書の確認を補助することが望ましいです。
診断書の取得費用については、患者の自己負担となります。保険会社によっては、「給付対象外と判明した場合にかぎり、診断書取得費用として一定額を補填する」という制度を設けているところもあります。
給付金請求には時効があります。
生命保険法第95条により、給付金の請求権は「権利を行使できるときから3年」で時効となるのが原則です。しかし実務上、多くの生命保険会社は時効の援用を必ずしも行わないため、3年を過ぎていても必要書類が揃えば請求を受け付けるケースがあります。患者が「数年前に受けた注射も請求できるか」と質問した場合は、「まず保険会社へ問い合わせることをお勧めします」と案内するとよいでしょう。
もう一点、重要な注意点があります。
生命保険の給付金請求においては、加入前に発症していた疾患(既往症)に関する告知義務が問われる場面があります。加入後に硝子体内注射が必要な疾患を発症し、適切に告知されていれば問題ありません。しかし加入前から治療中の場合は、告知義務の状況によっては給付金が支払われないこともあります。医療従事者は「保険が使える」と断定的に伝えることは避け、あくまでも保険会社への確認を促す姿勢が重要です。
生命保険文化センター「病歴があったのに告知するのを忘れていたら?」
※告知義務と時効(5年)の関係が丁寧に解説されており、患者に案内する際の参考情報として有用。
医療機関が患者へ「生命保険の確認をどのタイミングで促すか」という問題は、これまであまり議論されてきませんでした。しかし、硝子体内注射のような高額かつ継続性のある治療において、経済的不安は治療アドヒアランスに直結します。経済的理由で注射を中断する患者がいることは現場の実感としてある話であり、その背景には「給付金が使えることを知らなかった」というケースも含まれています。
治療開始説明の段階で、「加入中の民間医療保険があれば、手術給付金の対象になるか確認してみてください」と一言添えるだけで、患者の経済的な選択肢が広がることがあります。これは治療を勧めるためのセールス的な発言ではなく、患者が利用できるリソースを適切に案内する医療情報提供の一環です。
特に次のようなケースでは、この確認案内が有益です。
- 初めて抗VEGF注射の説明を受けたとき(インフォームドコンセントの場面)
- 年間10回以上の注射が見込まれるとき(費用シミュレーションを伝える際に自然に触れられる)
- 高額療養費の説明を行うとき(「民間保険もあわせて確認を」と自然につなげやすい)
ただし、特定の保険会社名を医療従事者が推奨することは越権行為になりかねないため、「ご加入の保険会社または保険代理店にご確認ください」という表現に留めることが原則です。
また、患者から「どの保険に入ればいいですか?」と聞かれることもありますが、それは医療従事者が答える範疇ではありません。この場合は「ファイナンシャルプランナー(FP)や保険代理店に相談されることをお勧めします」と案内することで、患者の疑問に誠実に向き合いながらも適切な役割分担が保てます。
継続的な注射治療において患者が経済的に安心して通院できる環境を整えることは、長期的な視力保護につながります。これが最終的な目的であり、保険確認の案内はそのための手段の一つです。
日本眼科学会「保険理事より:硝子体内注射の算定方法(G016・600点)について」
※硝子体内注射が診療報酬上「注射」として算定されることを公式に確認できる、根拠となる情報。