安静時心拍数が30回台でも、それが「正常」と判断すべきケースがある。

アスリートの安静時心拍数は、一般成人の基準値(60〜100回/分)を大きく下回ることが珍しくありません。マラソンのシドニー五輪金メダリストである高橋尚子氏は現役時代の安静時心拍数が30回台、長距離選手の不破聖衣来氏も30〜35回/分という数値が記録されています。これは「異常値」ではなく、スポーツ心臓の極端な例です。
なぜこれほどまでに心拍数が低くなるのでしょうか?
持久系の高強度トレーニングを長期間継続すると、左心室の拡張末期容量が増大し、1回拍出量(SV)が著しく向上します。心拍出量は「心拍数×1回拍出量」で求められるため、1回に大量の血液を送り出せるようになれば、心臓が1分間に拍動する回数が少なくても十分な循環が維持できます。つまり心臓の効率が上がるということですね。
また、迷走神経緊張の亢進(副交感神経優位の状態)と交感神経緊張の低下も心拍数低下に関係します。洞結節の自発興奮頻度そのものが低下することも一因とされており、これがいわゆる「洞性徐脈」として心電図に現れます。MSDマニュアル プロフェッショナル版によると、スポーツ心臓では心拍数が40回/分未満となることも「まれに」起こりうるとされており、その場合でも運動負荷により適切に心拍数が増加すれば、病的徐脈との鑑別につながります。
| 対象 | 安静時心拍数の目安 |
|---|---|
| 一般成人 | 60〜100回/分 |
| 運動習慣のある人 | 40〜60回/分 |
| トップアスリート(持久系) | 30〜50回/分 |
| 高橋尚子・不破聖衣来など | 30〜35回/分 |
特にマラソン・水泳・自転車競技などの持久系スポーツ選手において心拍数低下は顕著です。一方、重量挙げなどの無酸素系・パワー系スポーツでは、圧負荷による心筋肥大(等容性肥大)が主体で、必ずしも同程度の徐脈は生じません。心拍数の評価には競技種目の把握が条件です。
参考情報:スポーツ心臓の基礎的な病態・診断・治療について信頼性の高い解説が掲載されています。
アスリートの心電図にはさまざまな「異常」が認められますが、その多くはスポーツ心臓に起因する生理的変化です。医療機関で健診を受けたアスリートが「心電図異常」と指摘されても、適切に評価されなければ不要な精査や競技中止につながる恐れがあります。これは健康リスクだけでなく、選手のキャリアに直結する問題です。
スポーツ心臓で見られる主な心電図所見は以下の通りです。
重要なのは「運動によって心電図変化が消失するかどうか」です。洞性徐脈やⅠ〜Ⅱ度の房室ブロックは運動負荷試験で改善・消失することがスポーツ心臓の特徴です。これが鑑別の大きなヒントになります。
運動で改善しない場合や、Ⅲ度房室ブロック・有症状の不整脈が認められる場合は、ホルター心電図や心エコーを用いた精査を行うべきです。全国高校サッカー選手権のメディカルチェックでは、30人中4〜5名が過去の学校健診で心電図異常を指摘された経験があったというデータもあり、アスリートにおける心電図評価の重要性が改めて確認されています。
参考情報:スポーツ選手に特有の心電図パターンと鑑別の考え方を詳説した資料です。
スポーツ心臓の診断において最も臨床的に重要なのが、肥大型心筋症(HCM)との鑑別です。HCMは突然死の主要原因の一つであり、日本における若年スポーツ関連突然死の中でも最も多く関与する疾患とされています。症状がなくても放置すれば命に関わる可能性があります。
スポーツ心臓と肥大型心筋症の鑑別が困難になる「グレーゾーン」として、MSDマニュアルは以下の基準を示しています。
この範囲では、心エコー単体での鑑別は困難なことが多くなります。鑑別の手がかりとして有用な所見をまとめると以下の通りです。
| 評価項目 | スポーツ心臓 | 肥大型心筋症(HCM) |
|---|---|---|
| 左室壁肥大の分布 | 左右対称性 | 非対称性(中隔優位) |
| 拡張機能 | 正常 | 異常を呈することあり |
| 僧帽弁前方運動(SAM) | なし | あり(左室流出路狭窄時) |
| デコンディショニング後 | 肥大が退縮 | 退縮しない |
| 安静時心拍数 | 低い(徐脈) | 必ずしも低くない |
デコンディショニング(3カ月程度のトレーニング中止)により、スポーツ心臓では左室肥大が退縮しますが、HCMでは退縮が認められません。これが両者の鑑別に役立つ一方、アスリートのキャリアに大きな影響を与えるため、適応は慎重に検討する必要があります。
心臓MRI(CMR)も鑑別に有用です。HCMではCMR上の遅延造影(ガドリニウム)で中壁線維化を認めることがあり、心エコーで確定できなかった局所肥大の検出に優れています。ただし、HCM患者の最大60%では遅延造影が認められない点には注意が必要です。遅延造影がないからといってHCMを除外できるわけではないということですね。
参考情報:スポーツ心臓と肥大型心筋症の詳細な鑑別法について解説しています。
グランドハートクリニック ー アスリート必見!心エコーでわかる「スポーツ心臓」と隠れたリスク
スポーツ心臓は原則として良性の生理的適応ですが、無症状のアスリートが突然死するケースが後を絶たないのも事実です。厚かったですね。日本スポーツ振興センターのデータでは、高校生の突然死のうち約20%が心疾患に起因しているとされており、若年アスリートにおけるスクリーニングの重要性は揺るぎません。
医療従事者が特に注意すべき「見逃してはいけないサイン」は以下の通りです。
これらの症状・所見がある場合、スポーツ心臓として安易に経過観察とせず、心エコー・ホルター心電図・必要に応じて遺伝子検査を含む精査へ移行することが推奨されます。
また、持久系・混合系スポーツを長年続けるアスリートでは、心房細動の発生リスクが一般人より有意に高いことが複数の研究で示されています。英国スポーツ医学誌(BJSM)の系統的レビューおよびメタ解析(Newman et al., 2021)では、55歳未満のアスリートにおいて心房細動リスクが特に増加することが指摘されています。これは心拍数が低いアスリートにとって見落としやすい長期リスクです。
さらに、MSDマニュアルによると、エリートアスリートの最大20%では、トレーニングを中止した後も心腔拡大が残存する可能性があります。スポーツをやめれば必ず元に戻るとは限りません。これは長期的な経過観察の必要性を示す重要な事実であり、「元に戻るから問題ない」という思い込みには注意が必要です。
スポーツ現場や学校健診でアスリートの心電図異常・徐脈を発見したとき、どのような判断フローを踏むべきか、実務的な視点でまとめます。これは使えそうです。
現場では「心拍数が40回台だから病院へ」と機械的に対応するのではなく、その徐脈が生理的なものかどうかをまず文脈で判断することが重要です。
Step 1:背景情報の収集
まず競技種目・トレーニング歴・週あたりの練習時間(目安:1日1時間以上の持久系運動を継続しているか)を確認します。これだけで判断の方向性が大きく変わります。
Step 2:症状の有無の確認
次に「運動中の失神・胸痛・動悸・息切れ」の有無を問診します。無症状であれば、スポーツ心臓の可能性が高まります。家族歴(HCM・突然死・遺伝性不整脈)も必ず確認します。
Step 3:心電図の評価
洞性徐脈・Ⅰ〜Ⅱ度房室ブロック・不完全右脚ブロックは、持久系アスリートでは「正常な適応」の範囲内です。Ⅲ度房室ブロック・前側壁の深いT波逆転・QTc延長などが見られた場合は精査が必要です。
Step 4:運動負荷試験
心拍数が運動によって適切に増加するかを確認することが、スポーツ心臓と病的徐脈(洞不全症候群など)の鑑別における最大のポイントです。運動で心拍数が増加すれば問題ありません。
Step 5:心エコー検査
左室壁厚・左室拡張末期径・拡張機能(E/A比・e'値など)を評価します。前述のグレーゾーン(男性13〜15mm、女性11〜13mm)に該当する場合は、心臓専門医へのコンサルトを検討します。
「症状がないからOK」ではなく、エビデンスに基づく系統的な評価フローを踏むことが医療従事者の役割です。それが原則です。
スポーツ現場での一次スクリーニングとして活用されることが多い「12誘導心電図 + 問診」の組み合わせは、感度・コスト・利便性のバランスが優れています。特に学校健診や競技前メディカルチェックでは、日本循環器学会のガイドラインや欧州スポーツ心臓学の評価プロトコルを参考に、各施設での対応基準を整備しておくことが推奨されます。
参考情報:不整脈の診断とリスク評価に関する最新の国内ガイドラインで、スポーツと関連した徐脈・不整脈の評価基準も収録されています。
日本循環器学会 ー 不整脈の診断とリスク評価に関するガイドライン2022(PDF)