エンフルランの販売が中止されたのは「副作用が怖いから」ではなく、実は「より安全な薬が登場したから」です。
エンフルラン(一般名:エンフルラン、商品名:エトレン)は、1963年に開発され、1966年から初めて臨床使用されたハロゲン化エーテル系の揮発性吸入麻酔薬です。日本では昭和62年(1987年)ごろから外科手術の全身麻酔維持薬として広く用いられ、GOE(笑気・酸素・エトレン)という組み合わせが手術室での標準的な麻酔法でした。
しかし、より安全性と使い勝手に優れた後継薬が次々と登場したことで、エンフルランの存在感は急速に薄れていきました。結果として、日本では経過措置期限である2008年3月末をもって販売終了となりました。
意外に思われるかもしれませんが、販売中止の直接的な理由は「危険すぎる薬だったから」ではありません。要因は複合的で、以下のような背景が重なっていました。
日本の麻酔科医の間では「可もなく不可もない薬」と評されることもあったエンフルランですが、セボフルランが国内市場の90%以上を占めるようになった時点で、臨床的な役割はほぼ終えていました。
参考:エンフルランの基本情報(薬理学・副作用・歴史)
Wikipedia「エンフルラン」 – 薬理特性・副作用・販売終了の経緯
エンフルランには、後継薬にはない特有のリスクがいくつか存在していました。これらを知ることで、なぜ現場から消えていったのかが理解しやすくなります。
まず注目すべきは生体内代謝率の高さです。エンフルランの代謝率は約2%で、これはイソフルランの0.2%と比較すると実に10倍にあたります。代謝率が高いということは、体内でより多くの代謝産物(フッ化物イオンなど)が生じることを意味し、潜在的な腎・肝への負担が増す可能性があります。つまり安全マージンが狭いということです。
次に、けいれん誘発リスクがあります。エンフルランは高濃度で使用すると痙攣の閾値を下げるため、特にてんかんの既往がある患者への使用は原則禁忌とされていました。これはセボフルランやイソフルランには見られない、エンフルラン特有の問題点でした。「麻酔で眠っているのに脳は興奮している」という、逆説的な状態を引き起こすリスクがあったわけです。
さらに、すべての揮発性吸入麻酔薬と共通するリスクとして悪性高熱症があります。悪性高熱症は、特定の遺伝的素因を持つ患者が吸入麻酔薬(デスフルラン・エンフルラン・ハロタン・イソフルラン・セボフルラン)や脱分極性筋弛緩薬(サクシニルコリン)に曝露された際に発症する、生命を脅かす重篤な副反応です。早期発見と適切な治療が不可欠です。
| 特性 | エンフルラン | イソフルラン | セボフルラン |
|---|---|---|---|
| 生体内代謝率 | 約2% | 約0.2% | 約2〜3% |
| けいれん誘発 | あり(高濃度で) | なし | あり(小児で報告) |
| 悪性高熱症リスク | あり | ||
| 現在の使用状況 | 販売終了(日本2008年) | 継続使用中 | 国内シェア約90%以上 |
これが大切なポイントです。エンフルランは「一つの重大な理由」で中止されたのではなく、複数のリスク特性と後継薬の優秀さが組み合わさった結果として、臨床現場から退場していったと理解するのが正確です。
参考:悪性高熱症について(発症リスク・対象薬剤の解説)
Actionabilityサマリーレポート日本版「悪性高熱症素因」 – エンフルランを含む誘発薬剤一覧
エンフルランが姿を消した後、日本の手術室での吸入麻酔の中心を担うようになったのがセボフルランとイソフルランです。それぞれの特徴を知ることで、エンフルランとの違いが浮き彫りになります。
セボフルランは現在、日本国内での全身吸入麻酔のシェアが90%以上を占める事実上の標準薬です。麻酔の導入と覚醒が速く、気道刺激性が低いため、マスクによる導入(特に小児)にも使用しやすい特性があります。生体内代謝で産生される無機フッ素は、通常の臨床使用量では腎毒性を来すほどの濃度に達しないとされています。臭いも比較的穏やかで、患者の受け入れやすさも優れています。
イソフルランはエンフルランの構造異性体にあたり、生体内代謝率が0.2%と非常に低いのが最大の特徴です。体内でほとんど代謝されず、大部分が呼気中に排出されるため、肝臓や腎臓への影響が最小限です。また、けいれん誘発性がなく、てんかん患者への使用でもエンフルランより安全とされています。心血管系への抑制がハロタンより少なく、血圧管理の点でも扱いやすい薬です。
セボフルランが主役というのが現状です。しかし医療現場では、患者の状態や手術の内容によって使い分けが行われています。
参考:日本麻酔科学会による吸入麻酔薬の使用ガイドライン
日本麻酔科学会「麻酔薬および麻酔関連薬使用ガイドライン 第4版 Ⅳ 吸入麻酔薬」(2024年)
エンフルランの歴史を振り返るうえで、見逃せないのが「吸入麻酔薬と環境問題」という近年の動きです。これはエンフルランだけでなく、現在も使われている麻酔薬すべてに関わる、現代的かつ重要なテーマです。
揮発性吸入麻酔薬はフロン類に分類され、強力な温室効果ガスとしての一面を持ちます。特に注目されているのが地球温暖化係数(GWP)で、20年間における二酸化炭素を1とした場合の比較では以下のようになります。
デスフルランはGWPが突出して高く、EUでは2026年1月から使用が禁止されることとなりました。英国NHSでは2024年にすでに全廃を達成しています。日本でも2025年10月から一部の医療機関がデスフルランの使用を自主的に中止しています。
これは意外な事実です。デスフルランは吸入麻酔処置全体のわずか約3%にしか使われていないにもかかわらず、吸入麻酔薬に由来する温室効果ガス排出量の50%以上を占めているとされています。
エンフルランはすでに2008年に販売終了しているため、現時点での温室効果の問題には直接関係しません。しかし、こうした「医薬品と環境への影響」という視点が麻酔薬の使用に組み込まれていく流れは、エンフルランの後継薬たちにも大きく影響し始めています。医療と環境の両立が問われる時代に入っているということです。
参考:デスフルランの環境問題と2025年の使用中止の背景
岩井グループ「麻酔科からのおしらせ~揮発性吸入麻酔薬「デスフルラン」の使用中止」(2025年12月)
エンフルランの販売中止を「問題薬が消えた」と捉えるのは、少し一面的かもしれません。実際、エンフルランは昭和後期の日本の手術医療を支えた立派な麻酔薬でした。医療現場の実情を記した資料には「可もなく不可もないので当時の第一選択だった」という記述もあるほどです。
麻酔薬の歴史は、まさに世代交代の連続です。
こうして見ると、それぞれの薬が「その時代に最善だった選択」であり、次世代の薬の登場によって自然に退場していったことがわかります。エンフルランが廃止されたのは「危険だったから」ではなく、「より良い薬が生まれたから」と言うほうが正確です。
薬の廃止は進化の証です。
現在のセボフルランも、環境問題の観点から将来的には別の薬や技術(静脈麻酔TIVA=全静脈麻酔など)に主役の座を譲る可能性があります。実際、脊椎外科などでは揮発性吸入麻酔薬の使用自体を減らし、静脈麻酔を主体とするアプローチが広まっています。手術を受ける患者にとっては、こうした「麻酔薬の進化の歴史」を知っておくことで、術前の説明や同意をより深く理解する助けになるでしょう。
医療者にとっては、過去の薬のリスクを学ぶことが、現在の薬のリスク管理にも直結します。エンフルランのけいれん誘発性やセボフルランの腎毒性リスクなど、吸入麻酔薬のリスクプロファイルを正確に把握しておくことは、安全な麻酔管理の基本です。
参考:昭和時代の麻酔現場とエトレン(エンフルラン)の実際の使われ方
「今は昔パラダイス」(麻酔科医による昭和の手術室の記録)